Javascriptが無効になっているため、正常に表示できない場合があります。

「希望」の源泉

login

News & Columns お知らせ

当社では少量から、フェアトレード及び無農薬栽培された
コーヒー豆を卸売り価格にて販売させていただいております。

セイコ社長の【ガチ日記】

2018/11/21

「希望」の源泉

上智大学の講義での気づき

「希望」の源泉

だいぶ走り書きになりますが、書き留めておきたいことを、宣言通りに「走り書き」で。

先日、上智大学へ行ってきました。3年ほど前から1年に1度授業を持たせていただいています。内容はフェアトレードの実践ですので、豆乃木のこれまでの経緯、特にメキシコの生産者さんとの関係性の変化や、フェアトレードが必要な背景について、お話をさせていただきました。


「経済的理由から現在や将来に対して希望を抱きにくい状況が確実に存在している」

当日は、学生さんがもしかしたら、興味を持ってくれるかなと思い、冒頭で、私自身の青年海外協力隊でのアフリカでの活動についても触れました。
内容としては、「アフリカの貧困」というと、まだまだ「飢餓」と結び付けて連想する方が多いように思いますが、私が見てきたアフリカ(3か国ではありますが)の中で、日常的に「飢餓状態」に近い人びとと接したことは一度もありません。では、彼らの暮らしぶりは豊かなのかというと、決してそういうわけではなく、少なくとも当時は、経済的に貧しい状況が蔓延しており、その中で、「経済的理由から現在や将来に対して希望を抱きにくい状況が確実に存在している」と結論に至ったのです。

具体的によく例に挙げるのは、私が活動していたソフトボール指導の活動の中でのこと。当時、ソフトボールの巡回指導者として私が指導にあたっていた中学校のソフトボールチームが、地区大会を優勝し、全国大会へと行けることになったのです。
力投したピッチャーをねぎらい、選手たちは、優勝の喜びをダンスで表現していました(こういうところがアフリカンですね)。グランドを踊りながら喜びを爆発させている選手。私は、彼女たちに「さあ、全国優勝を狙おう!」と激励しました。
そのとき、一瞬、先生の表情が曇ったような気がしたのですが、その理由が、まもなくして発覚しました。
大会開催場所から帰路に向かおうとするチーム、ふたたび私は祝福とねぎらいの言葉を掛けたのです。「全国に行ってもがんばろう」と。すると、今度は先生が首を横に振って、「Seiko、そうではないのよ」と言いました。「何が?」と私が問いただすと、「全国大会はおそらく参加できないと思う。選手全員を連れていく交通手段はないし、交通費も払えない」と。「ええ!?それはないよ。せっかくみんながんばって練習したのだから。」私は必死に、顧問に食らいつき、選手の表情を見ると、さっきまで体中で喜びを表現していた彼女たちは、「それなら仕方ないよね。」と早々にあきらめモードなのです。私はそんな選手たちにも、腹が立ち、「一生懸命、練習してきたのに、全国行きたいよね!」と彼女たちの表情を見渡すのですが、首をすくめて、「しかたがないよ」という表情を見せるばかりなのです。
全国大会は首都での開催。私たちの暮らしている町からは、大阪と東京ほどの距離があります。学校自体に予算が薄い状態だと、同じように現地で活動している日本人の仲間からも聞いていたけれど、まさか交通費を理由に、全国大会を断念するとは。それに、何より、選手たちのあきらめの早さ、「ものわかりの良さ」が、絶望的な気がしたのです。「経済的理由から現在や将来に対して希望を抱きにくい状況が確実に存在している」のだと思いました。


ある学生からもらったリアクション

一通り話を終えると、学生たちにリアクションペーパーを記入してもらうことになっています。いただいたリアクションペーパーは、持ち帰って採点するのですが、ある学生のリアクションに、私は「はっ」としたのです。
彼女は、「私は毎日温かいお布団で寝て、おいしいごはんを食べ、大学に通わせてもらっているけれど、人間関係では、希望を抱きにくいと感じることがある。」と書いてくれたのです。
私は、この一文にはっとさせられました。なぜならば、私は、これまでに、経済的な側面でばかり、「貧困」について考えてきました。彼らが希望が抱きにくいのは、彼らが経済的に貧しいからだ、というのが、私の中の定義になっていましたが、本当にそうだろうか。
そして、経済的に恵まれた日本という環境下であっても、経済的理由とは無関係に、希望を失いかける可能性がある。
私にとってメキシコの生産者さんたちとのフェアトレードは「買い続ける」ことで、経済的に支えること、の意味合いが強かったが、果たして、それが彼らの「希望」になるだろうか。ある学生がくれた「本音」の声が、私にたくさんの気づきと発見をくれたように思います。
「フェアトレード」というコミュニケーションが、そこに関わるすべての人びとや、社会にとっての「希望」の源泉となるよう、これからも模索していこうと思う。