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豆乃木がなる日 Story of mamenoki 起業後11年

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豆乃木がなる日 Story of mamenoki 起業後11年
2022年7月のある日。
かつてたった6か月間ではあったが通っていた職場に呼んでいただき、コーヒーのお話しをさせていただいた。

その職場は、大学院大学という場所で、少し特殊なのだが、「光」技術をもちいて産業を興し、社会しいては国づくりに寄与することを建学の精神としており、その根幹には「起業家の育成」が掲げられている(と、理解している)。
私は光技術とは全く無縁なのだが、今から12~3年前に一派遣社員として、その大学が一般市民向けに開講していた「起業講座」のスタッフとしてかかわることになった。当時の私は、神奈川県の大学に所属する大学生でもあった。

ある夏の日、忘れもしない、一本の電話が鳴った。かつて登録していた派遣会社からだった。

「杉山さんにぴったりの仕事があるのですが、今なにかお仕事されていますか」

と。大学3年生の夏。前期で、卒業に必要な単位をほぼ取り終えたばかりの私は、友人との山梨県に日帰り旅行の最中だった。電話を持つ手とは別の手には、熟れた桃をつかんでいたかもしれない。

私は「実は神奈川県内の大学に通っているので、ちょっと難しいですね。」と伝えたうえで、

「ちなみに、それってどんな仕事なのですか」

と確認した。「わたしにぴったりの仕事」が気にならないはずがない。

「それが、起業講座のスタッフなんですけど・・・」

そのとき、指先に入った力で、もしかしたら桃のしずくが地面に滴ったかもしれない。

 

その直後に、私は神奈川県内のアパートを解約し、藤沢を一旦離れた。 

当時のスケジュールとしては、週末に「起業講座」が開講されるので、月曜日の朝、新幹線に乗り、神奈川県で授業を受け、ホテルに一泊。翌、火曜日も授業。その後、浜松に帰り、水曜日から金曜日は大学院大学での勤務。そして週末の「起業講座」。

正直、水曜日から金曜日の大学院大学での事務局内での私は、本当に「役立たず」だった。

毎朝、職員のお茶くみをした。誰が、どのカップかを覚えることさえも難しかった。

そして来客があるとやはりお茶をいれた。

湯呑に、なみなみとお茶を淹れる私を、先輩の事務員さんがやさしく正してくれた。そうか、湯呑に対して、お茶の量というのは、こんなにも「ささやか」なものだったのかと学んだ。思えば、我が家はマグカップでお茶を飲むような家だった。

あとは何をしただろうか。

どこで、どうやってお昼を食べただろうか。

構内で過ごした出来事は、まるで思い出せなかった。

一方、週末の起業講座のときだけは、たぶんものすごく生き生きしていたはずだ。

コピー用紙のサイズはいつまでも覚えられなかったが、受講生の名前はすぐに覚えることができた。受講生の皆さんと土曜日の夜は、毎度、浜松の夜の街に繰り出し、「起業」について語り合った。それまで、漠然と抱いていた「起業」へのあこがれは、しっかりとした目標に変わっていった。

 

その後、「起業講座」は場所を東京都内へ移して開講。再び神奈川県へと拠点を戻した私は、週末ごとに、都内へ出向き、講座に関わることになった。

そして私は、大学を卒業した年に株式会社豆乃木をつくった。最初の大きな仕事でもあった百貨店での催事のきっかけは、起業講座の講師に呼んでいただいた「芋煮会」がきっかけだった。

 

12,3年の時を経て、かつての「職場」からの一本のメール。

「杉山さんのコーヒー生豆を焙煎したものを、お昼休みにみんなで飲みながら、コーヒーの話をしてくれませんか」

という楽しげなお誘いに、コロナをきっかけに重くなっていた足が、綿あめのように軽かった。

もうすぐ11周年。11年で、自分がやったことはほんのわずかなことだったが、役立たずのひとりの派遣社員の存在を、こうやって思い出していただけたことは、本当に嬉しく、ありがたい。