改めて考えるとJICAからたくさんの縁や機会をいただいた人生だ。
20歳で応募した当時の青年海外協力隊。
高卒で無資格、語学力0、社会人経験もほぼない私をジンバブエに連れていってくれたJICA、
懐広すぎだろ。
世界のこと、「途上国」のこと、なにも知らなかった。
現地で生活しながら、良いことも悪いことも、全部受け容れるようになった。
一番最初の国では、現地の女の子たちにソフトボールを教えていた。
いろんな選手の家を訪問して、現地の暮らしぶりを垣間見た。
彼らの暮らしは貧しくとも明るいものだった。
けれど、そんな暮らしぶりに、時々激しく絶望した。
(どういう未来があればよいのかな?)
その答えは見つからないまま、任期を終えて、浜松に戻った。
その数ヶ月後、ケニア、ナイロビでリベンジマッチ。
そこには、ジンバブエでは見えなかった景色があった。
メルセデスのエンブレムが取れた高級車に乗る官僚マダムの家に招かれた。
目の前にコカコーラ、スプライト、ファンタオレンジの2リットルのペットボトルが並ぶ光景は「壮観」だ。
鶏のローストやお魚のフライが添えられたお食事を、まだ幼さが滲むお手伝いさんが並べてくれた。
マダムはことあるこどとにお手伝いさんを呼びつける。
お手伝いさんは、わたしにお手拭きを差し出してくれて、追加の飲み物をすすめてくれた。
私は、屋敷の窓の向こう側に、広がる東アフリカ最大のスラム街を見つめた。
隊員を経験しなかった人生を生きていないから比べようがないのだが、触れた色や、匂いのバリエーション、感情の種類がまったく異なるだろう。
最近、「見える人」が私をみて、こう言った。
「20歳からは、今に続くレールに乗って、自分の人生を生きていますよ。これから先も。」
このレールは、アフリカを旋回し、中米メキシコを行き来しながら、名古屋を経由するようになっていたのだろうか。
ついでに言うと、28歳で大学生になった私は、在学中、今も主力で扱っているマヤビニックコーヒーと出会うのだが、大学の研究室では、JICAの草の根資金協力を得ていたので、その頃はみなとみらいにあるJICA横浜に通うことがあった。
3度目の協力隊を終えたときは、「JICAのヒモ」である自分を憂い、自らの力で生きていくことを声高に誓った。
その結果15年の起業家としての道があり、JICA中部なごや地球ひろばでフェアトレードショップを開店させていただける機会をいただいた。
JICA中部センターに、なんの人間関係もなかった私だったが、直前で参加した女性起業家ブラジルビジネス連携調査団に参加させていただいたことで、中部の皆さんと接する機会をいただき、JICA中部センターは、早くも、私にとって、馴染みの顔の方々が、国際協力の舞台でキリッと働く、愛着のある場所になった。
ハタチの私が、協力隊事業を通して得た「世界と出会うきっかけ」を、今度はこの場所から、誰かに手渡していきたい。それが「JICAのヒモ」から更生した私の、社会還元になれば良い。
パラサイトにはなりたくない。

