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人と人の間の境界線 〜私がフェアトレードをする理由

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当社では少量から、フェアトレード及び無農薬栽培された
コーヒー豆を卸売り価格にて販売させていただいております。

セイコ社長の【ガチ日記】

2020/02/26

人と人の間の境界線 〜私がフェアトレードをする理由

「食を通じた社会貢献」をテーマに取材をしていただきました

人と人の間の境界線 〜私がフェアトレードをする理由

今日は、大変嬉しいことに、ふたりの大学生が、豆乃木を取材の目的で訪ねてくださいました。
彼女たちは、所属する学生団体 S.A.L. は国際問題の知識を深め、啓発することを活動内容として 2008年発足した、慶應義塾大学に本部を置く学生団体で、今回は、「食を通じた社会貢献」というテーマの冊子の制作のため、はるばる浜松にある豆乃木までやってきてくださいました。

彼女らが投げかけてくれた質問のいくつかは、私にとって、考えさせられる内容ばかりで、改めて、質問に対するいくつかの回答を、言語化しておきたいと思い、改めて、ここに記したいと思います。

私の発言の中で、他の方にも、よく関心をもって聞いていただく

「フェアトレード」をしたくって豆乃木をつくったわけではない

の意味を深堀します。


キーワードは、公正・寛容

振り返ってみると、フェアトレードという言葉も知らなかった頃から、私の好きな言葉は「公正」、そして「寛容」でした。

公正というのはまさにフェアトレードに通じる言葉ですし、「寛容」という言葉は、国籍や人種、生まれ育った境遇、宗教、セクシャリティなどを越え、多様性を受け入れることでもあり、フェアトレードに通じています。


なぜ「公正」、「寛容」であることを自分のもっとも大切にしたい価値観に置いているかと探ってみると、そこには、やっぱり青年海外協力隊での、現地の人との関わりや、赴任した国で見た情景やそこで感じたことが大きいです。


原点となるジンバブエでの日々

当時(2000年~2002年)のジンバブエでは、白人と黒人の居住エリアが線を引いたように分かれていました。そして、多くの黒人が密集して住んでいるエリアを『ハイデンシティ』と呼び、少数の白人が住んでいるエリアを『ローデンシティ』と呼んでいました。(『ハイデンシティ』とは高密度であることを言います。)

私が赴任したブラワヨというジンバブエ第2の都市でも、『ハイデンシティ』と『ローデンシティ』があり、検問や立ち入り禁止の看板こそないけれど、そこには見えない線、というか壁がありました。私の場合、協力隊の活動では、ハイデンシティの中学校を巡回しながら、ローデンシティのスーパーマーケットに夕飯の買い出しに行くことがありました。協力隊として赴任した日本人の私たちだからこそ、その境界線を、それほど意識することなく行き来することができていたのかもしれません。

私は、隊員時代、ソフトボールコーチとして活動していたのですが、赴任当時は、黒人のソフトボール選手は、白人で組織されていたソフトボール協会で、非常に肩身の狭い存在でした。赴任して初めて参加したソフトボール協会(白人中心のコミュニティ)でのミーティングの雰囲気は、未だに忘れられません。非常に独特で、私自身、とても萎縮したのは、英語が存分に話せない、というだけの理由ではなかったと思います。余談ですが、そのミーティングには、当時野球隊員として派遣されていた吉本所属の芸人さんでもある「シューレースジョーさん」もいらっしゃいました。シューレスジョーさんは、白人の協会幹部の皆さんに対して、しっかりと英語で意見をしており、私は、尊敬のまなざしで彼のことを見ていました。


私が、日常的に関わっていた選手は、皆、ハイデンシティに住んでおり、経済的に貧しかったです。その中でも格差がありましたが、特に経済的に逼迫している家庭では、女の子は、家のお手伝いをしなければいけないということで、早々に練習に参加できなくなりました。

一方で、教え子たちは、よく自宅に招いてくれました。
選手の家族も、いつも温かく迎えてくれ、紅茶と食パン、サザ(ジンバブエの主食)などをふるまってくれました。
「食パン」が出てくるのは、今にして思えば、おもしろいというか、珍しい光景ですよね。とくにジャムやバターがのっているわけでもなく、トーストされていない食パン(日本の食パンと比べて、やや小さめ)を食べながら、紅茶を飲んで、おしゃべりしたのを思い出します。
経済的に貧しくとも、本来は、私が「協力」すべき立場でありながら、彼らから、それ以上のものをいただきました。



もうひとつ、忘れられない出来事があります。

ジンバブエ赴任して2か月が経った頃、私は、3~4人の黒人男性に囲まれ、かばんにしまってあった財布を強奪されました。赴任してそれほど経っていませんでしたので、家財用具を買うつもりで、その日に限って、私は2か月分くらいになる生活費を現金で財布にしのばせていたのです。

その財布は、私を囲んでいた3~4人の中のひとりの手から、さらに、近くに待機していた彼らの仲間たちへと、まるでラグビーボールのようにパスされて、あっという間に私のもとから遠ざかっていきました。
私は2か月分の生活費を失うことになることへの抵抗感から、必死に犯人を追いかけました(本当は追いかけたり、抵抗してはいけないと言われていますので、絶対に抵抗しないこと!)。

事件発生時、周りに、たくさんの黒人の地元民がいました。

私が
「スリだ!」

と叫んでも、誰も彼ら(犯人)を制することをせず、見て見ぬふりをしました。

走って追いかけようとする私に声を掛けてくれたのは、大きな4駆に乗った白人の女性でした。
私を車に乗せると、犯人が逃げていった一方通行の道を、逆走までして追いかけてくれました。でも、結局逃げられてしまい、彼女は、泣いている私を慰め、警察署まで送ってくれたのです。

私がジンバブエに赴任したのは、ジンバブエがイギリスから独立して20年目の年です。
今思えば、「たった20年」だったからこその、あの景色で、今はまた違う景色を見ることができるかもしれません。



「フェアトレード」をしたくって豆乃木をつくったわけではないの真意

私は「フェアトレード」そのものがしたいわけではないです。
ジンバブエでは、ハイデンシティとローデンシティの壁を壊して、両者をつなぐことは結局できなかったけれど、同じように世界中に存在する見えない壁を溶かすような、そんな取り組みができればと思っています。
人間と人間の間に、境界線なんていらないのです。


コーヒーの世界も同じで、貧しい「南」の生産者が、富める「北」の消費者のために「コーヒーをつくる」のではなく、『買い手よし、作り手よし、世間よし』の三方良しの社会づくりのひとつの手段に「フェアトレード」はなれると思います。

フェアトレードは目的ではなく、手段でしかなく、その先に、フラットでバリアフリーな世界があればと願うのです。

だから、フェアトレードをしたくって豆乃木を作ったわけではないけれど、私の個人的な「体験」が、フェアトレードをする必然性を与えてくれているのだと思うのです。
この必然性こそが、私自身はとても重要だと思っています。


今回取材してくださった学生たちに、ここまで詳しくはお話しできませんでしたが、4月頃に、今回の取材内容が、冊子になるようです。どの部分を切り取ってくれたのかが、非常に楽しみです。ちなみに、私は、フェアトレードだからこそ、社会貢献だとは思っていません。すべての事業に、なんらかの社会的な役割があるはずだし、あるべきだと思っているからです。