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豆乃木、この夏クラウドファンディングやります!Vol.2

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当社では少量から、フェアトレード及び無農薬栽培された
コーヒー豆を卸売り価格にて販売させていただいております。

クラウドファンディング2019

2019/07/16

豆乃木、この夏クラウドファンディングやります!Vol.2

コーヒー生豆のグループ購入、皆さんとご一緒にいかがですか?

豆乃木、この夏クラウドファンディングやります!Vol.2

前回からの続きとなりますので、まずは下記をご覧ください

>> 「豆乃木、この夏クラウドファンディングやります!Vol.1」

今日は、現在につながる青年海外協力隊での出来事と、この仕事をしようと思うに至るきかっけについて綴っています。

21歳、アフリカの大地を踏む

 はじめての「途上国」は、残酷で、奇妙でした。

盲目の母親の傍らで、歩き始めたばかりで足元がおぼつかない子どもが、肌の色の違いだけを察知してか、私たちに手を差し伸べてくる。はじめて覚えた英語が「Give me money」かもしれない少女の汚れた手。最初は戸惑い、絶望していたのに、それらはそのうち、いつもの景色になっていました。

高卒、専門学校中退。何もない21歳の私は、この国では、「とても裕福な日本人」でした。稀に、顔も知らない現地の人から、

「薬代がないから、恵んでほしい」

「制服を買うお金がなくて、学校へ行けないから、貸してほしい」

と無心されることさえありました。

日本で生活していたときの「みじめな私」と「ジンバブエ人に映る私」とのギャップに、とても混乱しました。


私の活動は、主に、中学校をまわり、ソフトボールを教えることでした。

ソフトボールをしたいと集まる女の子たちは、悪びれることなく、決まって1~2時間くらい遅刻して練習に現れます。最初はストレスでしかなかった待ち時間も、そのうち「そういうもの」になっていきました。

生徒たちはすぐになついてくれて、皆が家に遊びに来いと、私を誘ってくれました。どの家も、同様に質素で、子どもが多く、薄暗かったのを思い出します。

よく招かれたのは、ロレーンという15歳の女の子の家。4畳半が2間ほどの小さな家で、雨音が強くなると、互いの会話がほとんど聞こえなくなるトタン屋根の下に、親戚も含めて10人ほどの家族が暮らしていました。私は、刺繍の施してあるソファカバーのかかった、一番立派な一人掛けの腰掛に通されて、よく食事をご馳走になりました。ジンバブエの主食、サザと呼ばれるトウモロコシをお湯にいれて練った餅のようなものに、緑の野菜が付け合わせであるだけの食事ですが、稀に、私のプレートにだけ、一切れの肉が置かれていることも。申し訳ないやら、嬉しいやら。

ロレーンの母親が、私と同じくらいおぼつかない英語で、一生懸命、日本のことや、私の家族のことを尋ねてくれました。私がジンバブエを離れるときには、日本人の大きな娘に、ロレーンのお母さんは、真っ赤な布で作った、手縫いのエプロンをプレゼントしてくれました。

「持っていない」とされる彼らが、「持っている」私たちに、いつもいっぱい与えてくれました。

(いつか、「彼ら」に恩返しをしたい)

その原動力が、私を次なる国、ケニアに向かわせたのです。

 しかしながら、2度の隊員活動を経ても、私の恩返しは果たされぬまま。3度目の正直で、マラウイへ行ったときに、起業のきっかけとなる活動に携わりました。それが一村一品運動でした。

一村一品運動との出合い、そして大学進学


一村一品運動は、「地域にすでにあるものに磨きをかけて、地域の誇りとなるような産品をつくり、その一連のプロセスによって人づくりをする」という1980年に大分県で生まれた地域おこしの運動です。現在に置き換えると、地域で活躍できるアントレプレナー(起業家)を育てる運動、というところでしょうか。私はそのコンセプトに共感し、マラウイの担当エリアを、文字通りに縦横無尽に走り回っていました。そこで出会った生産者グループのリーダーの中には、自分たちの地域資源で、モノを生み出し、四苦八苦しながらも、販路を広げようとする人たちがいました。

一方で、

「お金がないから、市場まで販売に行けない」

「お金がないから、商品がつくれない」

と、貧しさを理由に、いろいろなことをあきらめている人たちもたくさんいました。

当時の私が、アフリカ3か国の活動経験の中で目にしたものは、「生死をさまようような飢餓状態」というわけでは決してないけれど、主に金銭的な理由で、いろいろなことをあきらめる、という状況でした。そこに、私は、かつての「じぶん」を重ねていたのかもしれません。

たまたま日本人として生まれた私には、協力隊でアフリカへ行く、という道が開かれたけれど、彼らの前に、未来へとつながる道はあるだろうか。日々、そんなことを考えながらの活動でした。

マラウイでの任務は、同国内の小規模生産者グループがつくる「産品」の市場調査や販路開拓をサポートするものでしたが、次第に私は、国から派遣され、金銭的な手当をもらって、守られた生活の中にいる“気まずさ”を抱きはじめました。

さらに、大学入学準備中に出合った、社会の問題を事業で解決する「社会的企業」や「社会起業家」という概念が結びついたことが、「起業」を強く意識するきっかけになったのです。

マラウイで出会った彼らのような「遠くの生産者」とマーケットをつなげる―それが、私が描く「恩返し」の具体的なイメージとなりました。

マラウイからの帰国後、私は大学へと進学しました。
すでに、私は28歳になっていて、10も年下の「同級生」と机を並べることになったのです。そして在学中に、再びつながった、私と「海外」との接点。それが、のちの「豆乃木」創業の原点となりました。ただし、行き着いたのは、馴染の深いアフリカ大陸ではなく、中米・メキシコ。私が大学で所属したゼミでは、2003年より、メキシコ・チアパス州のコーヒー生産者の自立支援活動を行っていたのです。

 
>> 「豆乃木、この夏クラウドファンディングやります!Vol.3」へつづく