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「フェアトレード」をしたくって豆乃木をつくったわけではない、の真意。

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当社では少量から、フェアトレード及び無農薬栽培された
コーヒー豆を卸売り価格にて販売させていただいております。

焙煎翌日便

杉山世子の【ガチ日記】

2016/01/04

「フェアトレード」をしたくって豆乃木をつくったわけではない、の真意。

1月4日より、新年の営業を再開しています。

「フェアトレード」をしたくって豆乃木をつくったわけではない、の真意。

今年最初のサンセット

2016年営業初日。お客様、おひとりおひとりに年始のご挨拶にお伺いしたい気持ちもあるのですが、なかなかかなわずにいます。

オンラインでコーヒーの販売をしていると、電子化された文字でのやりとりがほとんどになってしまいます。もうこれは致し方ないことですので、この電子化された文字からでも伝えられる、伝わる、感じられるよう、話しかけていきます。ときどき、引っ掛かっていただけると嬉しいです。


さて、今年はどうやら私自身が、これまで以上に「フェアトレード」と向き合う機会が増えていきます。今日も、1月7日に母校でお話させていただくときの資料作りに励んでいます。

発表用の資料の中でも、「フェアトレード」という言葉がキーワードとして要所要所に出てくるわけですが、いつの間に自分は「フェアトレードの人」になったんだっけなぁ、と思うときがあります。というのも、私は「フェアトレード」をしたくって豆乃木をつくったわけではないのです。



公正・寛容

振り返ってみると、フェアトレードという言葉も知らなかった頃から、私の好きな言葉は「公正」、そして「寛容」でした。

公正というのはまさにフェアトレードに通じる言葉ですし、「寛容」という言葉は、国籍や人種、生まれ育った境遇、宗教、セクシャリティなどを越え、多様性を受け入れることでもあり、フェアトレードに通じています。


なぜ「公正」、「寛容」であることを自分のもっとも大切にしたい価値観に置いているかと探ってみると、そこには、やっぱり青年海外協力隊での、現地の人との関わりや、赴任した国で見た情景やそこで感じたことが大きいです。


原点となるジンバブエでの日々

当時(2000年~2002年)のジンバブエでは、白人と黒人の居住エリアが線を引いたように分かれていました。そして、多くの黒人が密集して住んでいるエリアを『ハイデンシティ』と呼び、少数の白人が住んでいるエリアを『ローデンシティ』と呼んでいました。(『ハイデンシティ』とは高密度であることを言います。)

私が赴任したブラワヨというジンバブエで第2の都市でも、『ハイデンシティ』と『ローデンシティ』があり、検問や立ち入り禁止の看板こそないけれど、そこには見えない線、というか壁がありました。私の場合、協力隊の活動では、ハイデンシティの中学校を巡回しながら、ローデンシティのスーパーマーケットに夕飯の買い出しに行くこともありました。協力隊として赴任した日本人の私たちだからこそ、その境界線を、それほど意識することなく行き来することができていたのかもしれません。

私は、隊員時代、ソフトボールコーチとして活動していたのですが、赴任当時は、黒人のソフトボール選手は、白人で組織されていたソフトボール協会で、非常に肩身の狭い存在でした。赴任して初めて参加したソフトボール協会(白人中心のコミュニティ)でのミーティングの雰囲気は、未だに忘れられません。非常に独特で、私自身、とても萎縮したのは、英語が存分に話せない、というだけの理由ではなかったと思います。

私が、日常的に関わっていた選手は、皆、ハイデンシティに住んでおり、経済的に貧しいように見えました。その中でも差があり、女の子は家のお手伝いをしなければいけないということで、結局、練習に参加できなくなる子もいました。

一方で、教え子たちは、よく自宅に招いてくれました。選手の家族も、いつも温かく迎えてくれ、紅茶と食パン、サザ(ジンバブエの主食)などをふるまってくれました。食パンが出てくるのは、今にして思えば、おもしろいというか、珍しい光景ですよね。ジャムやバターがあるわけでもなく、トーストされていない食パン(日本の食パンと比べて、やや小さめ)を食べながら、おしゃべりしたのを思い出します。経済的に貧しくとも、私は、本来は、自分が「協力」すべき立場でありながら、彼らから、それ以上にたくさんもらいました。

もうひとつ、忘れられない出来事があります。
ジンバブエ赴任して2か月が経った頃、私は、3~4人の黒人男性に囲まれ、鞄にしまってあった財布を強奪されました。赴任してそれほど経っていませんでしたので、家財用具を買うつもりで、その日に限って、私は2か月分くらいになる生活費を財布にしのばせていたのです。

その財布は、私を囲んでいた3~4人の中のひとりの手から、さらに、近くに待機していた彼らの仲間たちへと、まるでラグビーボールのようにパスされて、あっという間に私のもとから遠ざかっていきました。

私は2か月分の生活費を失うことになることへの抵抗感から、必死に追いかけました(本当は追いかけたり、抵抗してはいけないと言われていますが)。

そのとき、周りに、たくさんの黒人の地元民がいました。

私が
「スリだ!」

と叫んでも、誰も彼ら(犯人)を制することをせず、見て見ぬふりをしたのです。

走って追いかけようとする私に声を掛けてくれたのは、大きな4駆に乗った白人の女性でした。
私を車に乗せると、犯人が逃げていった一方通行の道を、逆走までして追いかけてくれました。でも、結局逃げられてしまい、彼女は、泣いている私を慰め、警察署まで送ってくれたのです。


私がジンバブエに赴任したのは、ジンバブエがイギリスから独立して20年目の年です。
今思えば、「たった20年」だったからこその、あの景色で、今はまた違う景色を見ることができるかもしれません。



「フェアトレード」をしたくって豆乃木をつくったわけではないの真意

私は「フェアトレード」そのものがしたいわけではないです。
ジンバブエでは、ハイデンシティとローデンシティの壁を壊して、両者をつなぐことは結局できなかったけれど、同じように世界中に存在する見えない壁を、溶かすような、そんな取り組みができればと思っています。人間と人間の間に、境界線なんていらないのです。


コーヒーの世界も同じで、貧しい「南」の生産者が、富める「北」の消費者のために「コーヒーをつくる」のではなく、『買い手よし、作り手よし、世間よし』の三方良しの社会づくりのひとつの手段に「フェアトレード」はなれると思います。

フェアトレードは目的ではなく、手段でしかなく、その先に、フラットでバリアフリーな世界があればと願うのです。

だから、フェアトレードをしたくって豆乃木を作ったわけではないけれど、私の個人的な「体験」が、フェアトレードをする必然性を与えてくれているのだと思うのです。
この必然性こそが、私自身はとても重要だと思っています。

だから豆乃木では、事業を敢えて「つくる」のではなく、自分の体験や感性をもとに、嗅覚をつかって、
「感じる方向」へ靡き、受け入れ、取り組んでいくことを続けることがベストなんじゃないかと思うのです。

今年はそんなわけで「フェアトレード」という言葉を使うことが増えそうですので、豆乃木のスタンスと、フェアトレードへの向き合い方を「ふーん」って具合に感じていただけたらと思いました。

(*2020年2月加筆しています)