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        <title>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</title>
        <description>わたしたちのこと</description>
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        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>新ブランド「THE FAIR TRADE」リリースのお知らせ</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=38</link>
        <description>







「THE FAIR TRADE」は、&quot;フェアトレード＝特別&quot; ではなく、&quot;フェアトレード＝当たり前&quot; にするブランドこのたび、株式会社豆乃木は新ブランド「THE FAIR TRADE」をリリースいたしました。「THE FAIR TRADE」とは？
&amp;nbsp;
株式会社豆乃木がリリースする新ブランド「THE FAIR TRADE」。
&amp;nbsp;
単なる「フェアトレード商品」ではなく、産地の物語を&quot;より感覚的&quot;に、高品質のコーヒーとともにお召し上がりいただきたい、という願いから生まれたブランドです。
&amp;nbsp;
「THE FAIR TRADE」は、生産者の栽培風景や日常を切り取り、彼ら生産者の思いや、物語を、一杯のコーヒーとともに届けます。
そしてフェアトレードが「特別なもの」ではなく、あなたの日常にあるコーヒーとして自然にお選びいただけるブランドを目指します。
&amp;nbsp;
－フェアトレードが当たり前の世の中に
&amp;nbsp;
「THE FAIRE TRADE」についてはこちら
&amp;nbsp;
選ぶことでストーリーに関わるブランドへー価値ある日常を、あなたにお届けします。
&amp;nbsp;
第一弾商品のご紹介ブランドのリリースに伴い、厳選されたフェアトレードコーヒーを使用した新商品を発売予定（2025年4月中旬から5月初旬）今後も「THE FAIR TRADE」を通じて、より多くの方にフェアトレードの魅力を伝え、生産者と消費者、社会が共に豊かになる未来を目指してまいります。お問い合わせ先：株式会社豆乃木（担当：杉山）お問い合わせフォーム</description>
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    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=9">
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        <dc:date>2021-05-20T01:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>ごあいさつ</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=9</link>
        <description>人びとが希望をもって生きていける機会を捉え、サービス（モノ・コト）に変える

2011年10月20日　杉山世子＊一村一品運動で関わっていたマラウイ国の人たちと杉山（左）

2011年3月、東日本大震災が発生した。この忘れがたい年の10月20日、代表、杉山世子（すぎやませいこ）は豆乃木と名付けた会社を登記した。
コーヒー豆屋だから「豆乃木」と思う人が多いかもしれないけど、実はコーヒー豆屋になる決心をする前につけた名前だ。
「人びとが希望をもって生きていける機会を捉え、サービス（モノ・コト）に変える」
その願いが、「豆乃木」になった。

その原点は、杉山が海外でのボランティア活動や大学の研究で携わった「一村一品運動」。この運動は、今から30年以上前に大分県でおこなわれた町おこしの運動で、その究極の目的は「人づくり」にある。
いや、豆の木と聞いて、誰だって思い浮かべるのは、「ジャックと豆の木」。子どものころに親しんだ物語。
杉山はさんざん悩んだ挙句、社名に「豆乃木」を思いついたとき、天高く聳える「豆の木」のイラストを思い出すことはできても、その物語の内容までは、残念ながら覚えていなかった。
そこで、改めて、その内容をたどってみると、これがひどい話だった&amp;hellip;。ジャックが、家から連れていった牛と豆とを交換したところから物語は始まる。
牛が豆にすり替わったことに激怒した母親が、豆を庭に捨てたところ、翌朝、庭に、雲を突き抜けるほど大きな木が伸びていた。ジャックは雲の上に存在する巨人の城から、金銀財宝を奪い、その後、裕福に暮らしましたとさ。そこで物語は終わっている。
正直、がっかりした。豆乃木が思い描く成長は、一朝一夕には起こりえない。
だからマメマメしく働き、地面にしっかり根をはって、養分を吸い上げて、いつか、大きく天高く聳える木になるんだ。
ひとりの力では達成できないかもしれないけど、たくさんの人と一緒に力を合わせることで成長できる。それは活動や研究を通して、一村一品運動が教えてくれたこと。
「人びとが希望をもって生きていける機会を捉え、サービス（モノ・コト）に変える」
その第一歩を、たくさんの人の力をお借りしながらフェアトレードコーヒーの輸入・販売を通して、踏み出している。



Profile 杉山 世子　

2000年
青年海外協力隊としてジンバブエへ。その後、ケニア、マラウイで活動をおこなう。
2007年
慶應義塾大学総合政策学部入学。山本純一研究室「フェアトレードプロジェクト」に関わる。
2011年8月
マヤビニックコーヒーを販売するオンラインショップ開設。同年10月株式会社豆乃木設立、事業拠点は神奈川県藤沢市に置く。
2015年8月
はままつフェアトレードタウンネットワーク所属にて活動開始

2017年5月
浜松市西区舞阪町に事業拠点を移転。
2017年11月
浜松市がフェアトレードタウンに認定される
2018年4月
浜松市西区舞阪町の作業場をリフォーム。直売機能を併設（現在も不定期営業中）
2023年8月
オンラインショップの名称を「豆乃木」から「まだゆめのつづき」へ改称




 

CI(コーポレート・アイデンティティ）に込める願い</description>
        <content:encoded><![CDATA[<img src='/hs_data/content1/up_img/20230801202109.jpg' />]]></content:encoded>
    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=5">
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        <dc:date>2014-04-09T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>CI(コーポレート・アイデンティティ）に込める願い</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=5</link>
        <description>豆乃木のCI、あなたはどんな風に見えますか？
豆乃木のロゴには「人と未来を育む」という意味が込められています。人の横顔と、天に伸びる木が並んでいるように見える方がほとんどですが、見方を変えると、地図のようにも、実をつけた太い幹のようにも見えます。
豆乃木の可能性をデザイナーがカタチにしてくれました。Designer：　unaco design room&amp;nbsp;
</description>
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    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=2">
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        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>コンセプト</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=2</link>
        <description>Te to Te（手から手へ）そしてFull of dreams（まだゆめのつづき）創業時に掲げたTe to Teのコンセプト。2023年8月には屋号を豆乃木からまだゆめのつづきへとリニューアルしましたが根底に思いは変わりません。・コーヒーと一口に言っても、その年の出来栄え、気候や風土、作り手の意思によって、さまざまな風味特性を備えています。［まだゆめのつづき］がご提供するコーヒーには、その土地の、その年の物語がこめられています。さらに、私たちがそこにかけた時間や思いまでもが、コーヒー豆の一粒一粒に、良くも悪くも反映されてしまうのです。コーヒーカップの中の液体が、コーヒーのすべてですが、なぜこのコーヒー豆が、この商品が、 こうしてここにあるのか。そのストーリーまでも辿ることのできる「物語」とともに、生産者から［まだゆめのつづき］へ、そしてお客様へ、手から手へとお届けしたいと考えています。「おいしさ」と、関わるすべての人の温もりとともに。そして、「もの」と「人」との関わりの連鎖が、お互いの垣根を取り除き、世界を本当にまあるくする日まで。私たちがお届けするコーヒーはまだまだ完全ではありません。「不完全なものを、より以上に」と一年一年重ねていくことこそが、このコーヒーと、私たちのサービスの価値になれば、というのは、甘えでしょうか。それでも、「より以上に」は決して忘れたくない強い思いなのです。2023年8月2日改定</description>
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        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>海外活動履歴</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=10</link>
        <description>杉山世子　海外活動履歴2000年7月　青年海外協力隊としてジンバブエへ（12年度1次隊・ソフトボール）寄稿文「ジンバブエ　ソフトボール」2002年8月　ジンバブエより帰国2003年5月　青年海外協力隊としてケニアへ（15年度短期・ソフトボール）2004年5月　ケニアより帰国2006年3月　青年海外協力隊としてマラウイへ（短期・村落開発普及員／一村一品運動）2006年10月　マラウイより帰国2008年8月　青年海外協力隊としてブルキナファソへ（特別短期・青少年活動）2008年9月　ブルキナファソより帰国2009年2月　一村一品論文執筆のためにマラウイへ2010年12月　一村一品国際セミナー参加のためベトナムへ2011年2月　一村一品研究のためケニアへ2012年2月　ＦＴＰ（フェアトレードプロジェクト）の一環でメキシコへ2013年版ＯＤＡ白書　掲載ＰＤＦ豆乃木　海外活動履歴2013年5月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地視察へ2014年3月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地視察へ2014年7月～9月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地調査等2015年2月　ラオス・パクセー（パクソン）コーヒー産地視察2015年2月～3月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地・買付け訪問　2016年3月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地・買付け訪問2016年10月　メキシコ・グアナファトでのメキシコ人・現地在住日本人を対象にしたコーヒーセミナーを実施2017年3月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地・買付け訪問・メキシコ在住日本人がコーヒー産地を訪問2017年6月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地・精製・選別・輸入段取りのための訪問2018年4月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地・買付け訪問2018年12月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地・買付け訪問2018年12月　エル・サルバドルJICAプロジェクトサイト視察2019年2月　フィリピン・ミンダナオ島にてカカオ農園視察2019年4月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地・買付け訪問2020年4月&amp;nbsp; &amp;nbsp; 予約してあったアメリカSCA視察及びメキシコ買付け訪問は新型コロナウイルス感染拡大によりキャンセル2022年3月　メキシコ・チアパス州コーヒー産地・買付け訪問</description>
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    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=4">
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        <dc:date>2014-04-08T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>フェアトレードについて</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=4</link>
        <description>

フェアトレードってなあに？
フェアトレードとは発展途上国の農産物や雑貨などを、適正な価格で継続的に輸入・消費する取り組みです。具体的には、長い間、私たちが買っているコーヒーやチョコレートは、どこで、どんな人が作っているかわかりませんでした。小さな子どもたちが働き手となり、長時間労働をおこなっても、作っている人たちには十分な収入が行き渡らないこともありました。フェアトレードでは、児童労働を禁止し、環境に配慮した栽培をします。
そのうえで、作っている人たちに、作ったものの質や労力に見合った収入がいきわたることを約束しています。
つまり、低賃金労働を強いられる傾向のある途上国の貧困解消や経済的自立を促すねらいがあります。

&amp;nbsp;
&amp;nbsp;


フェアトレードに関する記事
いくつかフェアトレードに関して豆乃木の杉山が書き下ろしています。もしよかったらご覧ください。
▼「フェアトレード」をしたくって豆乃木をつくったわけではない、の真意。

　http://www.hagukumuhito.net/news/?mode=detail&amp;amp;article=447</description>
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    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=6">
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        <dc:date>2014-04-07T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業前の学生生活</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=6</link>
        <description>こちらは、ＳＦＣクリップへの寄稿文より

10年遅れて入った大学が、SFCだった
SFCに入る直前まで、私は、高卒のアフリカ帰りだった。青年海外協力隊として赴任していたマラウイから帰国して間もなく、実家のある浜松市からSFCまで3時間ほど車を走らせ、AO入試の願書を取りに行った。わざわざ車で取りに行かなければならないほどに、出願までに残された時間は少なかったけれど、その数か月後に、すでに還暦を過ぎた両親は、突然「慶應生の子を持つ親」になった。高校を卒業してから10年が経っていた。

生れてはじめて「勉強の楽しみ」を知る
入学後、10も年が離れた同級生とは、どう接していいかわからず馴染めなかった。大学生らしいこと、例えば、サークル、学食、そしてSFCでは「残留」、には一切無縁で、なるべくグルワ（グルワだなんていかにもSFCっぽい言い方だけど）のない授業をとって、そつなく過ごしていた。そんな中で、唯一、自分の居場所となったのが、山本研（山本純一先生研究室）だった。そこでは、自分でテーマを設定し、黙々と研究をすればよかった。私は、マラウイの活動で携わっていた「一村一品運動」を探求すべく、SFCの奨学金をむさぼり、長期休みを利用して、マラウイや大分にフィールドワークに出掛けた。メディアセンターで本を選びながら、「私は勉強が好きだったんだ」と生まれて初めて知ったのもこの頃だった。気が付くと、SFCにもすっかり打ち解けていた。

&amp;nbsp;


SFCが導いた起業への道
卒業した年の10月に、株式会社豆乃木を創業した。SFCに入っていなかったら、今ごろ、何をしていただろう。やっぱり同じように起業はしていたと思うけれど、こんなに早い段階から、たくさんの人の力に恵まれることはなかっただろう。そもそも、豆乃木の主な事業内容が、大学時代から関わっている山本純一研究室フェアトレードプロジェクト（通称FTP）が支援対象としてきたメキシコ・チアパス州『マヤビニック生産者協同組合』のコーヒーの輸入及び販売促進なのだから。本当を言えば、まだ自社で輸入をした実績はなく、今まさに、ニュークロップ（新豆）の輸入を手掛けようとしている最中に、これを書いている。そしてこの輸入は、間違いなく、創業以来のビッグチャレンジになる。

この先に描く世界・・・
現在は、さまざまな産地のおいしいコーヒーを、気軽に飲めるような社会になった。しかし、いわゆる「スペシャルティコーヒー至上主義」が、品質のみにフォーカスする余り、コーヒーの愉しみ方、そしてコーヒーを通して見える世界を狭くしているのではないか、とも私は思う。では豆乃木として何ができるのか。その答えは、とてもシンプルだけど、「お客さまと作り手をつなぐこと」に尽きる。よく「顔が見える」というコピーで、生産者の顔ばかりを見せようとするけれど、もうひとつ肝心なことは、作り手にお客さまの顔が見えることだ。お客さまの顔がわかることや、お客さまから喜びの声を直接受け取ることで、生産者は、さらに気持ちを込めて栽培に専念できる。だからこそうまいんだ、というコーヒーを、少しずつ世の中に提供していけたら、どんなに嬉しいことか。その関係性が世界中に広がった先に、どのような未来が待っているのか。私にも、実はまだはっきりわからないけれど、そこに希望があると信じて、毎日を、突っ走っている。



（掲載日：2012/06/25、記事転載にあたり一部加筆修正あり）http://www.sfc.keio.ac.jp/alumni_stories/20120625.html</description>
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    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=7">
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        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業元年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=7</link>
        <description>大学を卒業した年の10月、私は株式会社豆乃木をたったひとりで立ち上げました。社会人経験もさほどなく、自己資金も乏しい。売上の見込みもなく、あるのは「メキシコ産マヤビニックコーヒー」を日本中・世界中の人に喜んでいただけるものにし、企業として途上国のパートナーと共に成長したいという強い思いだけでした。在学中、所属していた山本純一研究室のプロジェクトでこのコーヒーに出合いました。プロジェクトは、経済成長著しいメキシコにおいて、未だ貧困にあえぐコーヒー生産に従事するマヤ先住民の経済的自立を目的としたものです。同研究室ではJICAの資金を獲得し、栽培から加工までの技術協力に専念した結果、より高品質の豆の生産と、焙煎技術の向上に貢献しました。またフェアトレードによって日本への輸出促進も行いました。私自身は大学入学前に、アフリカ三か国で青年海外協力隊として活動しました。活動を重ねる中で、貧困指数の高いアフリカとはいえ、一方的な「支援」には限界があると感じました。そして、最も経済的に困窮した状況にある農民らと、ビジネスパートナーとして付き合っていきたいと考えるようになりました。大学卒業後の進路を考えたときに、私には「起業」という選択肢しかありませんでしたが、自分が一体何屋さんになるのかわかりませんでした。迷走の中で出した答えがマヤビニックコーヒーの販売でした。コーヒー豆が、唯一、私がすでに手にしていた商材だったこともありますが、思い起こせば、コーヒーは、昔から私の憧れでした。小さな頃、近所に住むコーヒー好きの叔母が、一年に数回、夕飯後に「コーヒーを飲みにおいで」と電話をくれました。当時の私は、まだコーヒーを飲めませんでしたが、暗い夜道を家族と一緒に歩きながらわくわくしました。そして、一杯のコーヒーのためだけに夜道を出かけるのだから、コーヒーとは、さぞ美味しい飲み物なのだろうと想像していました。しかし憧れのコーヒーを仕事にするのは、とても勇気がいることでした。すでにコーヒーを仕事にしている人の並々ならぬ情熱を知っていたからです。でも、私は、途上国の生産者と接する機会を得て、彼らが抱える共通の課題、それは「作ったものを、適正な価格で売る」ことの大変さと、大切さを知っていました。だから私にはコーヒーを売る資格があると自らを鼓舞し、決意しました。起業して一年。コーヒーを通じて、たくさんの人びとと交流できることに喜びを感じています。美味しいコーヒーがどれだけ人びとの心を和ませるかを実感します。あとは、コーヒーのフェアトレードを活発化し、生産者と共に成長していける体制を作っていきたいです。そのためには、常に人びとに気軽にコーヒーを飲んで交流していただける場所を確保することが、今の目標です。三田評論　2013年1月号に掲載&amp;nbsp;</description>
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    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=8">
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        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業後２年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=8</link>
        <description>マヤビニックコーヒーを販売するに至った経緯
株式会社豆乃木を創業したのは、大学を卒業して半年が過ぎた頃だった。新興国と関わるビジネスを興したいという願望はあったが、ずばりマヤビニックコーヒーを販売するために起業を決意したわけではなかった。そこに至る過程で、マヤビニックコーヒーとの関わりを10年以上に渡って持ち続ける慶應義塾大学山本純一先生から背中を押していただいたことはとても心強かった。さらに、国内の農業従事者が発したある言葉が決定打となった。
　「農家にとって一番嬉しいことは何だと思う。それは、作ったものが掛けた手間に見合った価格で売れる、という単純なことなんだよ。」
この言葉によって、私は、自らがとるべき行動に気づかされた。新興国とのつながりを、支援者という立場に固定するのではなく、生産者のパートナーとして、まずはマヤビニックコーヒーを日本国内で販売しよう、そう決意したのだった。
FTP関係者*、そしてロースター（焙煎業者）を含むお客様の支えをいただき、事業は少しずつではあるが、前に進んでいる。大変有り難いことに、取引をしているロースターは、このコーヒーの風味や持っている個性を評価し、購入し続けてくださっている。それが、フェアトレードであれば、尚よし、という具合に。だからこそ、今では、社会正義に訴えるのではなく、「メキシコ・マヤビニック」というひとつの魅力あるコーヒーを、長く愛されるものとして、お客様の生活に定着されることができるようプロデュースすることを心掛けている。
これからの10年
次の春には、コンテナに詰まったマヤビニックコーヒーの生豆が着港する。消費国のパートナーとして、消費者ニーズを生産地に伝えることで、次の春も、そのまた次の春も、継続して、安定的に取引をすることが、双方の糧となり、信頼関係を高めるだろう。
さらに、近い将来、作り手からダイレクトに届いた豆を、どなたにでも美味しくお召し上がりいただけるような場所（カフェ）を設ける予定だ。マヤビニックコーヒーを口にした人が、その風味に魅せられ、未知の世界に目を向けるきっかけができたのなら・・・。そこから次のアクションが生まれる可能性だって十分にあり得る。そういう連鎖を生み出す場所を、コーヒーをきっかけに日本中・世界中に作っていきたいし、その連鎖を生み出す起点と成り得るポテンシャルが、マヤビニックコーヒーにはあるからこそ、私はそこに情熱を傾けることができるのだ。
10年後、まだ訪れたことのない小さな町で、マヤビニックコーヒーをご愛飲くださっているお客様の姿が、私には見える。それを共に喜び合えるメキシコの生産者の笑顔と共に。
『月刊みんぱく　2013年9月号』＊FTPとは慶應大学フェアトレードプロジェクトの略称。2003年よりマヤビニック生産者協同組合の支援に関わる</description>
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    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=11">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2014-04-04T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業後３年半</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=11</link>
        <description>お約束
すでに該当される方には、お便りをお送りさせていただきましたが、先月、2015年5月18日、ある特定のお客様にお送りしたメールマガジンに、誤送信があり、結果的に、多数のお客様にご迷惑をお掛けしてしまいました。改めてお詫びさせてください。本当にご迷惑をお掛けしました。もう一度、皆様に信頼していただける会社を作っていく、そのことをお約束いたします。
　豆乃木を　創業する際に、100年続く企業を継承しているある会社の社長から、こんなメッセージをいただきました。　「あなたに、起業家として、一番大切な言葉を教えてあげる。もっとも大切なこと。それはたった二つの言葉だよ。&amp;ldquo;コツ&amp;rdquo;と&amp;ldquo;コツ&amp;rdquo;。つまりコツコツ。」
　その社長は、ひとつひとつ手を抜かず、コツコツと積み上げていくことでしか、会社を継続することはできないんだよ、と言いました。2011年10月に、この会社をひとりで立ち上げてから、今日まで、その言葉は私を支えてくれました。どんな仕事でも、コツコツとやっていくことで、私は前に進んでいると感じました。でも、どこかに慢心があったのかもしれません。今回のような出来事を起こしてしまいました。
　2015年5月。一年前に加わってもらった仲間と、結果的にお別れすることになりました。豆乃木のために、そしてお客様のためにととっても頑張ってくれました。でも、神奈川県と静岡県という距離を挟んでの業務で、たくさん気苦労を掛け、コミュニケーションが十分でなかったのかと思います。そんなときに、今回の件が発生しました。そして、即座に、一旦すべての業務を神奈川に集約することにしました。
　つまり、以前そうしていたように、私は、すべての業務を、自分の手を掛けてやることになったのです。コーヒーのパックにラベルをはり、コーヒーを詰め、袋詰めし、お客様に送る伝票を手で書きながら、忘れていた気持ち－初心－を取り戻したような気持ちがしました。また再び、仲間を得て、世界中を飛び回るお仕事ができる日まで、コツコツとやっていきます。皆様に信頼していただけるよう、頑張るのみです。</description>
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    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=12">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2014-04-03T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki　起業後４年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=12</link>
        <description>こちらは２０１５年協力隊５０周年にあたり、寄稿した文章です。テーマは隊員になるまで、その後の「ビフォー・アフター」青年海外協力隊としてジンバブエに赴任したときは21歳だった。
ソフトボールの部活動で、アメリカに遠征した高校１年の時に、破顔の笑みでボールを追いかけている同世代のアメリカ人の女の子たちと、日々の練習が苦痛でしかなかった自分自身とを比べて、ひどく落ち込んだことを覚えている。海外への憧れが募ったのはこの頃だったか。
はっきり言って、国際協力にはまったく興味がなかった。というよりも、援助が必要な背景や、そこに付随する仕事があることさえ知らなかった。私は無知で、自分さえよければいいと思っていた。
高校を卒業して、入学した専門学校では、あっけなく挫折して、たった数か月で生まれ育った町に戻った。再び、違う景色が見たくて、なんとか這い上がろうとしていたときに、「青年海外協力隊」の募集広告を見掛けた。海外への憧れを思い出して、私は飛びついていた。
はじめての「途上国」は、残酷で、奇妙だった。盲目の母親の傍らで、歩き始めたばかりで足元がおぼつかない子どもが、肌の色の違いだけを察知してか、私たちに手を差し伸べてくる。はじめて覚えた英語が「Give me money」かもしれない少女の汚れた手。最初は戸惑い、絶望し、そのうち、いつもの景色になっていた。
ソフトボールをしたいと集まった女の子たちは、悪びれることなく、決まって１～２時間くらい遅刻して練習に現れた。最初はストレスでしかなかった待ち時間も、そのうち「そういうもの」になっていった。選手たちはすぐになついてくれた。みんなが家に遊びに来いと私を誘う。どの家も、同じくらいに質素で、子どもが多く、薄暗かった。
よく招かれたのは、４畳半が２間ほどの小さな家。雨音が強くなると、互いの会話がほとんど聞こえなくなるトタン屋根の下に、親戚も含めて１０人ほどの家族が暮らしていた。私は、刺繍の施してあるソファカバーのかかった、一番立派な一人掛けの腰掛に通されて、よく食事をご馳走になった。稀に、私のプレートにだけ、一切れの肉が置かれていた。申し訳ないやら、嬉しいやら。選手の母親が、私と同じくらいおぼつかない英語で、一生懸命、日本のことや、私の家族のことを尋ねた。私がジンバブエを離れるときに、日本人の大きな娘に、アマイ（ジンバブエの言葉でお母さん）は手縫いのエプロンをプレゼントしてくれた。
「持っていない」とされる彼らが、「持っている」私たちに、いつもいっぱい与えてくれた。いつか、彼らに恩返しをしたい。その原動力が、私を次なる国、ケニアに向かわせた。
　しかしながら、２度の隊員活動を経ても、私の恩返しは果たされぬまま。３度目の正直で、マラウイへ行ったときに、今の進路を決定づける活動に携わった。それが一村一品運動だった。
一村一品運動は、「地域にすでにあるものに磨きをかけて、地域の誇りとなるような産品をつくり、その一連のプロセスによって人づくりをする」という大分県から生まれた地域おこしの運動である。私はそのコンセプトに共感し、マラウイの担当エリアを、文字通りに縦横無尽に走り回った。そこで出会う生産者グループのリーダーの中には、自分たちの地域資源で、モノを生み出し、四苦八苦しながらも、販路を広げようとする人たちがいた。私は、彼らアントレプレナーの市場調査や販路開拓をサポートする立場でありながら、アントレプレナーシップとは程遠い、守られた生活の中にいる&amp;ldquo;気まずさ&amp;rdquo;を拭えなかった。彼らのような「遠くの生産者」とマーケットをつなげる―それが、私が描く「恩返し」の具体的なイメージとなった。
マラウイからの帰国後、私は大学へと進学した。そのとき、２８歳になっていて、１０も年下の「同級生」と机を並べることになった。
講義は私にとって「答え合わせ」だ。派遣国で直面した現実や、現場での体験は、学者たちの言葉を通して、理論として私の頭にひとつずつ整理され、収納された。そして在学中に、再びつながった、私と「海外」との接点。それが、後の「豆乃木」創業の原点だ。
行き着いたのは、馴染の深いアフリカ大陸ではなく、中米・メキシコ。私が所属した研究室では、２００３年より、メキシコ・チアパス州のコーヒー生産者の自立支援活動を行っていたのだ。活動開始当初、学生たちが販路を広げて、マヤ先住民がつくるコーヒー豆は、日本全国で販売されるようになっていたのだが、私が関わる頃には、国内での販売促進の灯は消えていた。唯一、現地での栽培から二次加工のプロセスの改善を目的としたプロジェクトが走っていた。
起業への思いは、日に日に高まっていたものの、何を「飯の種」にするのかの決定打がないまま、卒業が間近に迫っていたある日、静岡でお茶の栽培をする農家さんに出会った。自己紹介の流れで、関わっていたメキシコのコーヒープロジェクトの話をした。私の話を聞き終えると、農家さんは、こう言った。
「作る人にとって、一番嬉しいことって何かわかる？作ったものが、ちゃんとした価格で、いっぱい売れること。それで、おいしいって喜んでもらうっていう、単純なことなんだよ。」
この言葉を聞いたとき、私は、マラウイで抱いた&amp;ldquo;気まずさ&amp;rdquo;と共に、援助ではなく、共に汗を流すパートナーへ、と気持ちが固まっていくのを感じた。そうだ、私の手の中には、マヤ先住民の人たちが大切に育てたコーヒー豆がある・・・。それは一村一品運動で言うところの、磨けば光る「原石」のように思えた。
豆乃木を創業して４年。マヤビニックコーヒーは、現在、再び、北は北海道から南は沖縄まで、心あるロースターさんに「選ばれるコーヒー」となった。創業当時は、フェアトレードという正義を振りかざして販売していた時期もあったが、長年コーヒー業を営む方々が、口ぐちに教えてくれた。
「他にも良い豆はいっぱいあるけど、なぜかマヤビニックはたくさんのお客さんに突き刺さる、深く愛される不思議な豆だ。フェアトレードというだけではない、それ以上の何かがある。」
産地を訪ねたときに感じた、足が包み込まれるような土の感触。強い太陽の日差しを遮る大きなバナナの葉。その下で熟した赤いコーヒーの実が、厚みのある生産者の手によって、ひとつひとつ摘み取られる瞬間を見れば、たしかにそれは不思議なことではない。　　
もしかしたら、私がメキシコの産地で見た景色を、生産者の姿や思いを、まるごと伝えることができたのなら、「フェアトレード」が単に「エシカルな消費者」だけのものではなく、その先にまで広く浸透するだろうか。そのためにも、生産者らと、一年一年を積み重ね、コーヒーを通して見える世界を、おいしいコーヒーにのせて、毎年毎年、届けたい。そんなふうに思っている。</description>
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    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=13">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2014-04-02T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki　起業後５年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=13</link>
        <description>
２０１６年９月のある祝日の木曜日。３組のお客様をお迎えすると、たちまち満員御礼となるクライネスカフェ（ドイツ語で小さなカフェという意味だそうです）を訪ねました。山間（やまあい）のカフェにたどり着くまでには、天竜川にかかる大きな橋を渡り、山道を、弧を描いてずんずんと走ってゆく。それは気持ちの良いドライブコースです。その日は時折強い雨が降っていました。でも木々の合間に落ちる雨さえも、美しい里山の風景となじみ、ここに来ると、心穏やかな空間に身を寄せられるのです。先に来ていたお客さん２組が、「それではお先に」と言って席を立つ。束の間、私以外にお客さんがいなくなり、オーナーの戸村さんとお喋りに花を咲かせていたところ、ドア越しに、遠い記憶の中で、見覚えのある男性が、こちらを見て佇んでいいました。少し驚いた様子で、でもどこか確信的に。「え、なんで？」私は心底驚いて、それ以外の言葉が出てきません。「え、なんでなんで？」そこにはいたのは、本来そこにいることがまるで想像できない人でした。それは、バルセロナオリンピックが開催され、サッカーJリーグがスタートし、日本人初の女性宇宙飛行士・向井千秋さんが宇宙へ行った、はるか昔の過ぎ去りし中学時代に、毎日のように顔を会わせていた部活動の顧問の先生だったのです。あの頃より、やや腰回りに「貫禄」を増した、でも20年以上前からそうだったように、「子ども（教え子）を子ども扱いしない理解のある大人」然とした様子はまるで変わらず。「おまえさんが、前に学校に来てくれたときに、コーヒーの仕事やってるって言ったから、おまえさんのコーヒーが飲める店に行こうと思って、ネットで調べたら、ここのカフェが出てきたんだよ。それで今日、はじめて来たら、いきなりおまえさんがいるもんだから。」おまえさん、って呼び方が、なんとも先生らしくて、同級生のキタオカが聞いたら、絶対に笑い転げるだろうなと思いつつも、絶句。たしかに一年ほど前、急に思い立って、キタオカと一緒に、先生の居場所を探し出し、今、勤務している学校に突撃訪問したことがありました。それが十数年ぶりの再会で、そこから一年。その際、コーヒーを買いたい、と言ってくれた先生に、「また新しい豆が入ったら買ってください。」と、私が答えたようで、「一体、いつその豆は入るのだろう」と、一年もの間、心の片隅に置いていてくれていたことにも驚くのですが、それにも増して、浜松に帰省するわずかな日程で寄った里山のカフェでの思いもよらぬ遭遇。カフェからの帰り道、いつもより高めの心拍数と、いつもよりも大きめの鼻歌を響かせ下山。この恩師との偶然の再会は、これまで歩いてきた人生（みち）を、首が違えるくらいに振り返らせるきっかけとなりました。中高の部活動、練習嫌いの私には苦痛でしかありませんでした。中学時代は、持って生まれた体力だけで乗り越えたけれど、高校生になってからは、それだけでは太刀打ちできなくなっていました。ようやくやる気を出したときには、すでに手遅れだったのに、最後の試合となった瞬間から、何日も涙が止まりませんでした。後悔という言葉を、噛みしめていました。それから、海を越えた場所に移り住んだり、サラリーマンしたり、学生やったりしながら「起業」への気持ちが高まる中で、手にしていたものが「コーヒー」でした。具体的な事業計画もないのに、３年もすれば、何か国もの産地との取引が生まれていると思っていました。たくさんの仲間を得て、一緒に働いているところを想像していました。でもこれまでの５年間、メキシコ１か国とつながっていることに必死でした。メキシコにある１つの組合のコーヒーを販売することに必死でした。創業する際に思い描いていたことは、なにひとつできていないと悲観することばかりでした。だけど、道草ばかりの人生（みち）を振り返ったときに見えたものは、不格好で、散らかっていて、道とも呼べぬ道でしたが、思えば、どんな道を歩んでいても、途中途中で、必ず、手を差しのべてくれる人がいて、「がんばれ」と言って励ましてくれる人がいて、背中を押してくれる人がいて、一緒に並んで歩いてくれる人がいたように思います。豆乃木を創業して５年が経ちます。本当は、自信もないし、不安だし、ときどき、投げ出したくなるときもありますが、里山カフェでの恩師との偶然の再会（チームの大黒柱であるべきピッチャーでありながら、乱調で幾度もゲームを乱す２０年前の教え子のためにと、足を運んでくれた恩師がいること）に、心から感謝します。自分で歩んだ道を、たまには、よしよし、と承認してもよいのだと、初めて心から思いました。５年前から私の人生は「豆乃木」そのものです。まだまだ幼木ではありますが、この頃、ようやくぽつりぽつりと、実がなりはじめました。ハッタリではなく、一歩踏み出す勇気と覚悟が、今の私、そして今の豆乃木には備わったような気がしています。６年目も、楽しみでなりません。</description>
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    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=14">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2014-04-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  そして浜松へ</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=14</link>
        <description>浜松に拠点を戻そう、と思ったのは、フェアトレードタウン運動が盛んになった2016年の頃。そして、2017年6月12日、月曜日。その日から、豆乃木は、友人家族の好意で、浜松市西区舞阪町の小屋を、作業場として利用させてもらうことになった。「とりあえず、1年間は甘えさせてもらおう」と、思ったけれど、実は、その家族には、17、18歳の頃から、ずっと甘えっぱなしだった。その建物は、高校時代の友人家族の実家に隣接していて、高校3年生という大切な時期にも関わらず、通い詰めていた場所だった。ふたりとも勉強もせずに、遊んでばかりいた。週に２～３度は、その家でご飯をご馳走になり、そこから学校に通うこともあった。そんなときは、決まって、その家の「お母さん」が弁当を作って持たせてくれた。その後、私は大阪の専門学校へと進み、ひとり暮らしをはじめた。間もなくして、その家の「お母さん」から、小包が届いた。たくさんの食料品が詰まっているその中に、その家で、よく食べさせてもらった、私の大好物、「お母さん」の手づくり紅しょうがも入っていた。私は大好きな紅しょうがすぐになくなってしまわないように、大切にすこしずつ食べていたけれど、結局、食べ終わる前に、専門学校をやめ、浜松に戻ってきてしまった。友人は、20代後半で結婚し、舞阪の「実家」を出た。その後、ふたりの子どもに恵まれ、すっかり母親となったのだが、それはそれは居心地のよい「実家」だから、頻繁に「実家」に出入りしている。私も、その友人が結婚したあとも、友人に会うために、「ともだちの実家」を訪ねる。未だに、晩御飯をご馳走になりながら、何かのきっかけで、「物置になっている小屋」の存在を知り、あれよあれよという間に、「お母さん」が大量に収納されていた物を片付けてくれて、正式に「作業場」として使ってよいことになったのは、今年に入ってから。そして今。その友人にも、ときどきアルバイトで手伝ってもらいながらも、ほとんどの時間、私はひとりで、その小屋でデスクワークやら作業やらをしている。2日目、お昼になると、「お母さん」が、私のためにサンドイッチを持ってきてくれた。２つの大きなサンドイッチを持って来て、「せいこちゃん、これじゃ足らないら？」としきりに聞いた。私は１個でも十分に大きなサンドイッチを受け取りながら、「ほんとに十分だに。ありがとう。」と言って、また甘えてしまった。たまに会うから喜んで、懐いてくれていた友人の子どもたちも、6月12日以降、毎日見る私の姿に、さすがに反応しなくなった。恩返しすべき人がここにもいる。20年も前から、与えてもらってばかりの「お母さん」、ありがとう。</description>
        <content:encoded><![CDATA[<img src='/hs_data/content1/up_img/maisaka.jpg' />]]></content:encoded>
    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=15">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2014-03-19T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業後６年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=15</link>
        <description>2017年10月17日。マヤビニックコーヒーを日本のロースターさんに紹介してくれた恩人でもあるグラウベルコーヒー、狩野さんと、グラウベルコーヒーのproducerでもある藤原さんが、トークイベントを企画してくださった。＜対談＞であったはずなのに、私が一方的に喋りすぎてしまい、3日経った今でも反省している。事前にいただいた質問票の、ほとんどは、お話できなかった。狩野さんに、もっとえぐってもらうつもりだったのに。そして狩野さんに、もっと「発見してもらう」つもりだったのだ。いただいた質問事項を、勝手に振り返りつつ、トークイベントの反省会をしよう。6年前の10月20日に生まれた豆乃木は、また新しい一年を迎えようとしている。

なぜメキシコのコーヒーと関わることになったのか
ドラマティックな出逢いであれば良かったのに。そう思わずにはいられないのだが、実際のところ、「たまたま」としか言いようがない。学生時代に、関わっていたプロジェクトで、メキシコのコーヒーとの出合いがあった。アフリカや日本の地方の地域おこしをテーマにしていた私は、ほんの傍観者にすぎず、いつまでも外野席からプロジェクトを眺めていた。ある日、第一線で活躍していたプロジェクトマネージャーが、同プロジェクトから退くことになった。そこで私の打席が回ってきた。なぜ私だったのかと言えば、私が単に年をとっていたからではないかと思う（私は、28歳のときに大学に入学した。）その後、私は少しずつ打席に立つことになるのだけれど、スペイン語が操れない私は、見逃し三振ばかりで、進塁できず。スタメンに選ばれたのは、単なる人数合わせだったのだと思う。卒業が迫ってくると、私はいよいよ本格的に起業に向けて準備をはじめた。あるビジネスプランを描いて、起業のためのセミナーに通い始めた。そのビジネスプランには、「コーヒーの販売」についても、かろうじて触れていたかもしれないが、そんな程度でしかなかった。ただ、常々思っていた。「何かやりたい」「世界とつながる仕事がしたい」「そのときには＜支援者＞という立場を脱却したい」「対等な（ビジネス上の）パートナーになりたい」１年近くの歳月をかけて、自分自身を棚卸したときに、関わっている「フェアトレードコーヒープロジェクト」の存在を強く実感することになる。今、つながっている人たちに、まずは向き合おう。メキシコの大地を踏んだのは、そのあとだった。それから6年間の間に訪問した回数は、今年になって、二けたになった。それなのに、未だにメキシコに対しては、どこか他人行儀な、「お邪魔します」という感覚がある。言葉の問題は依然大きいし、数年間関わっていたアフリカへの思いも捨てていない。（私は結構思い出に執着するタイプなんだと思う。）でもだからこそ、常に客観的で、対等でいられるのだろう。一年一年、良い関係を築けているのではないだろうか。



「フェアトレード」がしたいわけではない、の真相は？
以前、ブログで、 「フェアトレード」がしたいわけではない、という記事を書いたことがあった。（記事のURL：http://www.hagukumuhito.net/news/?mode=detail&amp;amp;article=447）この記事に書いていあるとおりで、「人は皆、尊い。だから、他者に対して（それが見ず知らずに人であっても）思いやりの気持ちを持ちたい」という気持ちは一貫して変わらない。フェアトレードという仕組みやスローガンに共感しているのではなく、思いやり、に重きをおきたい。フェアトレードだから買うのではなく、その人たちが心をこめて作ったものにお金を払いたいだけだ。（だからこそ、私は今、フェアトレードのパートナーであるマヤビニックとセスマッチに対して、「改善要望書」をあげている。「フェア」でいるために必要なことだと思うから。）というわけで、「フェアトレード」をしたくって豆乃木を作ったわけではないけれど、私の個人的な「体験」が、フェアトレードをする必然性を与えてくれている、という気持ちは変わらない。
実際に買い付けに行く意味
「実際に買い付けに行く意味」を考えたことがなかった。行きたいから行くし、事情が許すなら、一年の半分は産地で過ごしたいほどだ。産地にいるときが、一番、高揚感がある。2016年の6月だったか、神戸にあるUCCのコーヒーミュージアムに行った。贅沢な展示の数々の中でも、「産地の展示ゾーン」に入ったときに、一番血がたぎるのを感じた。そのときに、私は産地(畑)にいる時間が一番楽しいし、そのためにも、今の取り組みを続けていきたい、と思ったほどだ。青年海外協力隊でマラウイにいたときにも、東西南北、ピックアップ(4輪駆動車)に乗せてもらい、よく走っていた。事務所にじっとしていられないから、とにかくコミュニティを回った。ずっと変わらない車窓の景色を眺めているのも好きだった。産地に行くと、そのときと同じ気持ちになれる。「ただいま」っていう感覚。

具体的に何をやっているの？
具体的に何をやっているかと言うと、毎年それほど長期滞在ができないので、フィールドでは、ひとまず毎年、こちらが見たいことを伝えて、見せてもらう。いくつかの農園、農家さんの実際の住まい、収穫風景、果肉除去の工程、精製や選別・・・。さらに事務所では、組合の状態をヒアリングして、価格とだいたいの輸入数量を決める。出港時期もこのとき、調整する。価格は、まずは相手に提示してもらい、「根拠」を聞く。こちらの希望も伝える。例えば、荷姿であったり、支払いのタイミングであったり。さらにカッピングをしてコメントを言い合う。セスマッチでは必ずカッピングを実施している。マヤビニックでは、そのときどきで状況が異なるが、来年からは、滞在日数を長くとって、カッピングを徹底して実施してもらわなければ。2017年ははじめて出航前の選別に立ち合った。それは正しく選別が行われているかの確認と、コンテナへの積み込みに関する指示のため。細かいことだけれど、非常に重要だと感じている。というのは2016年に結露によって30袋に、麻袋の表面に、水濡れのシミを確認していた。ただ、そのときは、その年はじめて導入したグレインプロのおかげて、豆への浸水を防ぐことができた。実は、グレインプロに関しては2012年ごろから、装着をお願いしていたのだが、その年ようやく採用されたのだった。そうやって、ひとつひとつやっていくしかない。あと、もうひとつは、日本側の評価を伝えることも忘れていない。セスマッチはとても熱心に耳を傾けてくれる。マヤビニックは単純に、喜んでくれる。来年やりたいことは、もう一度、選別作業に1から立ち合うこと。前回は全量立ち合うことができなかったので。全量立会い、必要であれば2～3度選別機にかけてもらうことも要求したい。
現地とのやりとりで気を付けていることは？
もっとも気をつけていることは、相手のペースや考えを尊重しながら、こちらの要望を伝える、というバランス。もし、私が毎年数コンテナ買い付けできるのであれば、もっとリクエストをして、リクエストを通してもらうこともできるかもしれない。その、たくさん買う人が「これで良い」と言っていたら、産地の品質に対する考え方は変わらない。こちらがハードワークして、たくさん買えるようになったら、こちらの声（リクエスト）は無視できなくなる。その状態に持っていくまでは、バランスをとりながら、現段階でできる最善策をとっていく。
なぜ、そこまでして、マヤビニックのコーヒーを買い付けるのか？
出逢ってしまったから。この世界にはたくさんのコーヒー産地があり、たくさんの農園があるのに、わたしはこのコーヒーと最初に出会ってしまった。世の中に美味しいコーヒーはたくさんあるし、マヤビニックが1番、とは思っていない。もちろん、きちんとハンドピックしたときは、劇的においしく感じるから、そういう努力は惜しんではいけないのだろうけど。
こんなにも生々しく、人びとにとって身近なコーヒーがあるだろうか、と思ってもらえるコーヒーが、マヤビニックであって欲しい。だから、マヤビニックはコーヒーであって、コーヒーではない。一冊の写真集であり、エッセイのような、そしておいしい、そんなコーヒーメディアをつくりたい。そして、そんな風に感じられるコーヒーをもっと増やしたい。つまり、産地を増やしたい。いろいろな生産者と関わっていきたい。
セスマッチに期待すること
セスマッチの豆は2015年から取引をはじめて、今年で3期目。昨年は、うちでは抱えきれなかったので、他の会社に紹介して、デカフェになって日本へ入ってきた。そして、今年の購入に繋げることができた。マヤビニックとは、産地とともに、豆乃木自体も共に成長していく、というつもりでいるが、セスマッチに関しては、もう少しドライに「品質主義」で付き合っていければと思っている。あくまでスローガンだけれど、「一番おいしく、安心できるオーガニックコーヒー」になって欲しい。彼らはCOEの入賞を目指しているので、こちらの要望は的外れではないはずだ。彼らにはプレッシャーをかけられるように、こちらも「やる気」を見せないといけない。要求するだけではダメだということは、マヤビニックですでに学んでいるからだ。だから、今は「品質主義」に徹するための前段階で、「信頼関係をつくる」時間。何よりも、買い続けることで、信頼関係を作っていくしかない。彼らは自らが品質向上の価値を理解しているので、わたしの役割としては、欲しいものを、買える状態を作ることだ。一番いいコーヒーは、日本に出そう、と思ってもらえる相手になること。買う力だけではなく、誠意は伝わる。
品質向上の希望はあるか？
それは豆乃木次第かもしれない。実感としては、一年ずつ、対応は良くなってきている。例えば、今年は品質には残念ながら反映されているとは言えないが、コンテナへの積み込みの際に指示した通り、カバーを覆って、結露を防ぎ、さらに直置きをしないよう、パレットの上に豆を置いて欲しい、という、要望が叶っていたり。これによって、輸送中の「品質の劣化」を防げたかもしれない。小さいことだが、そうやってひとつひとつを改善していくこと。そのほかには、彼らが良いコーヒーを作ることで、高揚感をえられるような、そんな買い付けがてきたら良い。彼らにとって、コーヒーの売買が単なる収入で終わらない、もっと得られるものがある、と感じてもらう工夫を考えていきたい。すごく単純な発想だけど、来年は、ロースターさんや店舗の写真、メッセージ、お客さんの声を集めて、写真集でも作って持っていこうと思う。映像なんかもあっても良いだろうなぁ。
「豆乃木の５年後」課題と展望は？
今朝、一枚の紙を取り出して、未来予想図を描いてみた。これが想像をはるかに超えて、イメージが広がっていった。そして思ったことは、「これはひとりでは成しえない」という当たり前のこと。個人的な思いとしても、もっともっと産地で過ごす時間をとりたいから、国内の業務をしっかりお任せできる体制を作りたい。人が必要だ。これまでは無我夢中で、完全に私の思い込みでやってきたけれど、これからは、一緒に地図を描いてゆける仲間を募ってやっていきたい。豆乃木の７年目の使命は、「おいしいだけじゃないフェアトレードコーヒー」という選択肢をもっと増やすこと。おいしいだけのコーヒーは、もっと得意な人にお任せして、ドラマティックなコーヒーを、産地との交流によって届けている、そんな５年でありたい。


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    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=16">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2014-03-15T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  ７年目に射した光</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=16</link>
        <description>日墨交流会から、今回の講演のお話をいただいたとき、私は今年2度目となる渡墨に向けてのスケジュール調整に難航していたこともあり、講演の日程ばかりにフォーカスするあまり、その責務をよく理解できていませんでした。
当日、メキシコ大使館を訪ね、90名以上もの「メキシコのプロ」のご参加をいただき、日の丸とメキシコ国旗のある檀上を眺め、土壇場になって私には荷が重いと焦りましたが、「メキシコのプロ」の皆さんの胸を借りて、2014年のサビ病の危機から、現在に至るまでの、マヤビニック生産者協同組合の皆さんとの関わり合いの変化、そしてフェアトレードがなぜ「できない」のかの根本的な原因、それでもフェアトレードをする理由などなどをお話させていただきました。
講演の後には、交流会があり、私が2011年の株式会社豆乃木（以下、豆乃木）創業以来、輸入に関わっている「マヤビニックコーヒー」も飲んでいただくことができました。
また一歩、自分のアイデンティティの中に、まばゆいメキシコの色味が加わったような気がして嬉しかったのと、豆乃木がメキシコのコーヒーを扱う会社であるという客観的事実を見直した瞬間でもありました。
檀上からご挨拶をくださったメキシコ大使館、ホセ・アントニオさんのスペイン語での挨拶はほとんど理解でないどころか、日本語通訳のないことに慌てながらも、引き続き、ラジオスペイン語を頼りに、「メキシココーヒー」を背負って、日本中を駆け回りたいです。　
青年海外協力隊としてはじめてアフリカ・ジンバブエに派遣された17年前から私の中に滞留する「アフリカへの思い」は、一旦、心の奥底へとしまい、当日の講演内容を振り返ってみたいと思います。
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きっかけは「アフリカへの恩返し」
青年海外協力隊としてジンバブエに赴任したときは21歳だった。

ソフトボールの部活動で、アメリカに遠征した高校１年の時に、破顔の笑みでボールを追いかけている同世代のアメリカ人の女の子たちと、日々の練習が苦痛でしかなかった自分自身とを比べて、ひどく落ち込んだことを覚えている。海外への憧れが募ったのはこの頃だったか。
はっきり言って、国際協力にはまったく興味がなかった。というよりも、援助が必要な背景や、そこに付随する仕事があることさえ知らなかった。私は無知で、自分さえよければいいと思っていた。
高校を卒業して、入学した専門学校では、あっけなく挫折して、たった数か月で生まれ育った町に戻った。再び、違う景色が見たくて、なんとか這い上がろうとしていたときに、「青年海外協力隊」の募集広告を見掛けた。海外への憧れを思い出して、私は飛びついていた。
はじめての「途上国」は、残酷で、奇妙だった。盲目の母親の傍らで、歩き始めたばかりで足元がおぼつかない子どもが、肌の色の違いだけを察知してか、私たちに手を差し伸べてくる。はじめて覚えた英語が「Give me money」かもしれない少女の汚れた手。最初は戸惑い、絶望し、そのうち、いつもの景色になっていた。
ソフトボールをしたいと集まった女の子たちは、悪びれることなく、決まって１～２時間くらい遅刻して練習に現れた。最初はストレスでしかなかった待ち時間も、そのうち「そういうもの」になっていった。選手たちはすぐになついてくれた。みんなが家に遊びに来いと私を誘う。どの家も、同じくらいに質素で、子どもが多く、薄暗かった。
よく招かれたのは、４畳半が２間ほどの小さな家。雨音が強くなると、互いの会話がほとんど聞こえなくなるトタン屋根の下に、親戚も含めて１０人ほどの家族が暮らしていた。私は、刺繍の施してあるソファカバーのかかった、一番立派な一人掛けの腰掛に通されて、よく食事をご馳走になった。稀に、私のプレートにだけ、一切れの肉が置かれていた。申し訳ないやら、嬉しいやら。選手の母親が、私と同じくらいおぼつかない英語で、一生懸命、日本のことや、私の家族のことを尋ねた。私がジンバブエを離れるときに、日本人の大きな娘に、アマイ（ジンバブエの言葉でお母さん）は手縫いのエプロンをプレゼントしてくれた。
「持っていない」とされる彼らが、「持っている」私たちに、いつもいっぱい与えてくれた。いつか、彼らに恩返しをしたい。その原動力が、私を次なる国、ケニアに向かわせた。
　しかしながら、２度の隊員活動を経ても、私の恩返しは果たされぬまま。３度目の正直で、マラウイへ行ったときに、今の進路を決定づける活動に携わった。それが一村一品運動だった。
&amp;nbsp;

一村一品運動との出合いと進学
一村一品運動は、「地域にすでにあるものに磨きをかけて、地域の誇りとなるような産品をつくり、その一連のプロセスによって人づくりをする」という1980年に大分県で生まれた地域おこしの運動である。私はそのコンセプトに共感し、マラウイの担当エリアを、文字通りに縦横無尽に走り回った。そこで出会う生産者グループのリーダーの中には、自分たちの地域資源で、モノを生み出し、四苦八苦しながらも、販路を広げようとする人たちがいた。私は、彼らのようなアントレプレナーがつくっている「産品」の市場調査や販路開拓をサポートする立場でありながら、アントレプレナーシップとは程遠い、守られた生活の中にいる&amp;ldquo;気まずさ&amp;rdquo;を拭えなかった。彼らのような「遠くの生産者」とマーケットをつなげる―それが、私が描く「恩返し」の具体的なイメージとなった。

マラウイからの帰国後、私は大学へと進学した。そのとき、２８歳になっていて、１０も年下の「同級生」と机を並べることになった。
講義は私にとって「答え合わせ」だ。派遣国で直面した現実や、現場での体験は、学者たちの言葉を通して、理論として私の頭にひとつずつ整理され、収納された。そして在学中に、再びつながった、私と「海外」との接点。それが、後の「豆乃木」創業の原点となる。
行き着いたのは、馴染の深いアフリカ大陸ではなく、中米・メキシコ。私が所属した研究室では、２００３年より、メキシコ・チアパス州のコーヒー生産者の自立支援活動を行っていたのだ。&amp;nbsp;

メキシコのコーヒー生産とマヤビニック組合
コーヒー豆の主要生産国であるメキシコでは、伝統的に先住民が小規模なコーヒー生産を行っている。かつては、メキシコ・コーヒー公社が政府保証価格でコーヒー豆を買い上げたり、生産者に対する技術指導を行っている。しかし、国営企業の民営化と財政健全化政策の一環として、1989年には政府保証価格の買い上げが廃止されたため、生産者の収入が不安定となった。そこで、生産者が集まって独自に商品を開発し、販売する協同組合が結成されるようになった。チアパス州チェナロー区にあるマヤビニック生産者協同組合（以下、マヤビニック）も、こうした協同組合の一つだ。

　1999年に組織されたマヤビニックは、独自に販売ルートをつくり、焙煎豆の国内販売と、フェアトレードによる生豆の海外輸出を行ってきた。特に有機栽培のコーヒー豆は、海外に輸出する際、高値で買い取られるため、有機栽培によるコーヒー豆の生産に力を入れた。　
それまで外部により機材供与や資金協力を受けたこともあったが、それでも生産設備が十分ではないことや、販売経験の不足等、様々な問題を抱えていた。
　そのような折に、2001年、協同組合の理事長であるアグスティン・バスケス氏と、当時慶應義塾大学の山本純一先生（現名誉教授）は偶然に出会った。バスケス氏は、山本先生に日本に、マヤビニックのコーヒー豆を輸出するにはどうしたらいいか、という相談を持ちかけた。この相談がきっかけとなり、2003年に「慶應義塾大学山本純一研究室　Fair Trade Project（以下、FTP）」を立ち上げ、フェアトレードの研究や現地での調査が始まった。2006年からは、JICAが実施している草の根技術協力事業を通じて、技術協力を行ってきた。
　FTPは、山本先生を中心に、民間企業に勤めるコーヒー専門家や学生も参加し、マヤビニックが生産するコーヒー豆の質の向上と品質管理の改善、コーヒーに関する理解や、マーケティング能力の向上等を目指した。このプロジェクトの最終的な目的は、マヤビニックが自力で組合を運営し、組合員が経済的に独立することを目指したのだった。
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「生産者にとってのカフェ」
コーヒーと一言でいっても、私たちがカップでコーヒーを飲むまでの間には、長い道のりがある。

マヤビニックでは、コーヒーチェリーと呼ばれる赤い実がなる12月頃から収穫がはじまる。完熟した赤い実をひとつずつ手摘みしたあと、果肉を除去し、発酵槽で24時間、浸水した後に、天日乾燥（ここまでが一次加工）。その後、十分に乾燥されたパーチメント（コーヒー豆に殻がついた状態）が、生産者によっての加工場に持ち込まれ、脱穀、比重・サイズ・色の選別を経て、69kg入りの麻袋におさめられ（ここまでが二次加工）、日本やアメリカといった国に輸出される。それぞれの国で焙煎され、はじめて、馴染のあるコーヒー豆の形となる。
この過程はバリューチェーン（価値連鎖）と呼ばれ、生産者が主に携わる一次加工の段階では、利益は少なく、生産者の手を離れたあとの、焙煎やカフェでの店頭販売といった段階で、コーヒーの付加価値は一気に高くなる。
FTPでは、生産者自らがそうしたコーヒーのバリューチェーンに参画していくことが重要であると考え、2010年から始まった第2期プロジェクトでは「コーヒーの加工・焙煎、コーヒーショップの開店・経営」となった。何よりも、「自分たちのコーヒーの価値を知ってほしい」という思いから、山本先生を中心に、生産者が自らの作っているものに誇りを持てるよう指導を続けた。そして、2011年12月、ついに、マヤビニック・カフェがオープンする。
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「コーヒーを販売しよう」
同時期、私はFTPの学生理事であったものの、メキシコの生産現場とは程遠いところにいた。私の起業への思いは、日に日に高まっていたけれど、何を「飯の種」にするのかの決定打がないまま、卒業が間近に迫っていたある日、国内で、生産から販売までを手掛け、海外にも販路を持つある農家さんに出会った。　

自己紹介の流れで、関わっていたFTPのプロジェクトの話をした。私の話を聞き終えると、その農家さんは、こう言った。
「作る人にとって、一番嬉しいことって何かわかる？作ったものが、手間に見合った価格で売れるっていう、単純なことなんだよ。」
この言葉を聞いたとき、私は、マラウイで抱いた&amp;ldquo;気まずさ&amp;rdquo;を思い出した。援助ではなく、彼ら生産者と共に汗を流すパートナーになりたい。
「そうだ、私の手の中には、マヤ先住民の人たちが大切に育てたコーヒー豆がある」
それは一村一品運動で言うところの、磨けば光る「原石」のように思えた。マヤビニックコーヒーを日本で販売しよう。そう自分の気持ちが固まっていくのを感じた。そして、2011年10月、私は株式会社豆乃木をたったひとりで立ち上げたのだった。

コーヒーサビ病
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&amp;nbsp;
豆乃木を創業、同時期にオープンしたカフェテリアを訪ね、初めて、チアパスを訪れたときは、言葉の問題もあり、生産者組合の皆さんと目も合わせられぬほどだった。
その後、年に１～２度のペースでチアパスを訪れるものの、その距離感は埋まらぬまま。
それでも、私はマヤビニックを「生産者自らが誇りを持てるブランドに」というコンセプトを掲げ、オンラインショップの開設、業務用コーヒー生豆の販売、そして年間100本以上のイベント販売会やコーヒーセミナーを持ちながら、奔走していた。
少しずつ販路ができてきた2014年の頃、組合のサポーターであるルイスから一本のメールが入った。
「今年は思った以上にサビ病が深刻でオーガニックコーヒー豆をあなたの希望の数だけ用意できるかわかりません」
という内容だった。
サビ病とは、「コーヒーさび病菌」という名前のカビによる植物伝染病で、発症すると、葉の裏側に赤さびのような斑点がいくつも現れて次第に広がり、やがて葉は枯れ落ち、病気は葉から葉へと広がり、最終的には一本の木全体の葉が落ちてしまう。葉を失ったコーヒーの木は、光合成を行うことができず、木そのものが枯れてしまう。
さび病菌は「空気感染」し、農園全体、産地全体に広がって、すべてのコーヒーの木を壊滅させる恐ろしい病気である。
私は状況把握のために、産地へ渡り、実際にこの目で、まったく葉のついていないコーヒーの木を目の当たりにして絶望的な気持ちになった。でも、サビ病以上に深刻な問題を自覚していた。
それは、生産者組合の人たちとの「コミュニケーション」の問題だった。

生産者との「埋まらぬ溝」
&amp;nbsp;ルイスは、マヤの先住民で組織される組合の中で、唯一の非先住民でありながら、1999年の組合創設以来、彼らのサポーターとして組合運営を担っている。当時から、スペイン語を話せない私にとって、英語が理解できるルイスが、唯一の心の支えだった。そのため、すべてのコミュニケーションは、ルイスを介しておこなわれていた。気づかぬようにしていたが、スペイン語を理由に、他の組合役員とのコミュニケーションを意図的に避けてきた。それは次第に、「先住民の人たち」への理解の欠乏による苦手意識に変わっていたのだった。

私はサビ病で朽ち果てたコーヒーの樹木を眺めながら、
「10年、20年かけて、彼らにとっての信頼できるパートナーになろう」
と誓った。
正直、当時は、メキシコのことを、それほど好きではなかった。それでも毎年、産地に足を運び続け、2015年にはじめて、組合の皆さんから「来てくれてありがとう」と声を掛けられた。
そして、2016年。いつものように産地を訪れると、ルイスはこう言った。
「今回、僕は同行できないけれど、彼らと一緒に、彼らの（生産現場でもある）コミュニティへ行っておいでよ。きっとおもしろい体験になると思うよ。」
　ルイスに「放牧」された私は、腹をくくって、組合員が運転する車に乗せてもらい、彼らのコミュニティへと向かった。
車内、誰かが、私に向かって言った
「風が強いね」
というスペイン語が唯一、私が聴き取ることができる言葉だった。そのあと、彼らが話すツォツィル語をBGMに、私は車窓にひろがる「いつもの産地の景色」を眺めていた。　
&amp;nbsp;

「来てくれて、ありがとう」
最後まで言語によるコミュニケーションには事欠いたのであったが、それでもルイスのいない2日間で、私と先住民である彼らとの距離は縮まったかのように思った。

「最後に写真を撮ろう」
と私が声を掛けると、皆が応じてくれた。組合長のマリアノさんが、親指を立てて、ポーズを決める。ただそれだけのことが、とても嬉しかった。
翌日、ルイスを含めて、組合の事務所で2日間の滞在について振り返る時間があった。彼らの口から、
「私たちのコミュニティに足を運んでくれてありがとう。おかげで、どういう人が、自分たちのコーヒーを買ってくれているのかが、組合員である農家にもわかってもらえて、本当に良かった。
私たちが日本へ行くのは難しいけれど、日本の皆さんにもお礼を伝えて欲しい。Gracias！」
彼らの言葉に、涙があふれた。
&amp;nbsp;

フェアトレードとは何か
2017年10月で、豆乃木を創業して丸6年になる。

2017年8月末に、創業以来、念願であった自社名義でのコーヒーの輸入を果たした。デバン（コンテナからコーヒー豆をおろす作業）を見守っていると、やっぱりこみあげてくるものがあった。
マヤビニックコーヒーは、現在、北は北海道から南は沖縄まで、心あるロースターさんに「選ばれるコーヒー」となった。創業当時は、フェアトレードという正義を振りかざして販売していた時期もあったが、長年コーヒー業を営む方々が、口ぐちに教えてくれた。
「他にも良い豆はいっぱいあるけど、なぜかマヤビニックはたくさんのお客さんに突き刺さる、深く愛される不思議な豆だ。フェアトレードというだけではない、それ以上の何かがある。」
産地を訪ねたときに感じた、足が包み込まれるような土の感触。強い太陽の日差しを遮る大きなバナナの葉。その下で熟した赤いコーヒーの実が、厚みのある生産者の手によって、ひとつひとつ摘み取られる瞬間を見れば、たしかにそれは不思議なことではない。　　
もしかしたら、私がメキシコの産地で見た景色を、生産者の姿や思いを、まるごと伝えることができたのなら、「フェアトレード」が単に「エシカルな消費者」だけのものではなく、その先にまで広く浸透するだろうか。そのためにも、生産者らと、一年一年を積み重ね、コーヒーを通して見える世界を、おいしいコーヒーにのせて、毎年毎年、届けたい。そんなふうに思っている。

終わりに
2017年9月20日、目覚めると、メキシコを襲う今年2度目の大きな地震があったことを知らせるニュースが飛び込んできた。奇しくも現地地震発生日となった9月19日は、1985年のメキシコ大地震と同日、メキシコ国内では国家市民防災デーの一環で、地震発生の2時間前には、避難訓練が行われていたと聞く。

2017年9月9日に発生したメキシコ南部沖を襲った地震は、弊社のお客様からのメッセージで知った。
「杉山さん、チアパス沖で大きな地震が発生しているようですが、生産者の皆さんは大丈夫でしょうか」
地震発生時、私は8月末に入港したコーヒーのニュークロップ（新豆）を納入したばかりのカフェを訪問していた。カフェの店主に、
「メキシコで大きな地震があったみたいです。」
と伝え、状況確認のために、生産者組合の何人かにテキストメッセージを送った。すでに現地時間では夜も深かったが、すぐに返信をくれたのは、後述するサンクリストバル・デ・ラス・カサスの生産組合直営カフェ「マヤビニック・カフェ」の店長だった。ちょうど、その日の営業を終える頃に地震が発生したようで、
「とても揺れたけど、自分も、家族も、カフェも、大丈夫だ。」
とのことで、ひとまず、安堵する。
その日は、弊社でチアパス産のコーヒー「マヤビニック」を納入させていただいているカフェや自家焙煎店から、チアパス地震による被害を心配するたくさんのメッセージをいただいた。皆、おいしい一杯のコーヒーでチアパスとつながっている人たちだった。
その後、産地は、大きな被害もなく、皆、無事であることがわかったが、太平洋沖の被害は深刻であり、続く地震の恐怖におびえているメキシコの人たちに、何ができるだろうかと途方に暮れる。
しかし、結局私ができることは、来年も、彼らからコーヒーを買い付けること。日本の皆さんに、「彼らのコーヒー」を届けること。今年以上の量を買うことができたら、ヒビの入った建物の修繕費用くらいは、賄うことができるかもしれない。
メキシコが一日も早く、元気を取り戻しますように。
&amp;nbsp;</description>
        <content:encoded><![CDATA[<img src='/hs_data/content1/up_img/mex.jpg' />]]></content:encoded>
    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=17">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2014-03-08T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業後７年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=17</link>
        <description>先日、不思議な出会いがあった。
&amp;nbsp;




静岡市にある大好きなレストランで、食事を済ませて、車を出そうとしたときに、私の不注意で、停車してあった他の車に傷をつけてしまったのだ。
私は慌てて店内に戻り、車の所有者を探したところ、ある女性のものだとわかった。
お詫びをし、その方と連絡先を交換するために、お互いに名刺を差し出すと、その方が「マヤ暦」の鑑定をされることを知る。状況が状況だけに、不謹慎だとは思いながらも、
「実は、うちもマヤのコーヒーを販売しているんです」
と口に出さずにはいられなかった。
&amp;nbsp;
静岡と浜松は、高速でも１時間かかるくらいの距離があって、なかなか頻繁に通うことはできないのだけれど、それでも私は、このレストランが大好きで、何かきっかけを見つけては、食べに行く。
そんなすばらしいレストランで、その女性が、ご家族でゆっくりお食事をされているときに、車を傷つけ、食事を中断させてしまったことは、本当に申し訳なく、自分の不注意をひどく反省するのだけれど、その女性は、終始、穏やかに対応してくださったあと、何か思い出したかのように、私に生年月日を尋ねたのだ。
&amp;nbsp;
何日か経って、車の修理を終えたというご連絡とともに、私の手元に「マヤ暦の鑑定書」が届いた。
&amp;nbsp;
マヤ暦、興味あります！
と確かに私は言ったが、まさかこれほど丁寧な鑑定の結果が届くとは。
さっそくページをめくると、それは時々、専門書を読むように難しい表現がありつつも、ひとつ、２０２０年が私にとってとても重要な年であることがわかったのだ。
&amp;nbsp;
あと２年か・・・。
&amp;nbsp;
ちなみに、鑑定書によると、２０２０年以前に同じように重要だった年がいつだったかと言えば、私が８歳、つまり小学２～３年生のときだと言う。８歳のときの自分がどうだったかは、全然思い出せないが、８歳のとき以来に迎える節目の年だ。おちおちしてはいられない。
２０２０年に向けて、今から準備できることはなんだろう。さらに数日後、私は４０歳になる。４０代をいかに過ごすか。どこで過ごすか。
&amp;nbsp;
私の幼馴染は、２０代の途中からアメリカにわたり、その土地で資格を得て、看護師として働きながら、二人の子どもを育てている。きっと彼女はもう、浜松市民になることはないだろう。
&amp;nbsp;
自分が生まれた場所と同じように、自分が暮らす場所は運命的に決定づけられているのだろうか。
&amp;nbsp;
ある程度の年になってから、私は、自分の居場所を自分で選択してきたように思う。
例えば、小学生のときに、神戸からの転校生の存在で、関西に強い憧れを抱き、高校を卒業して、大阪の専門学校を選んだとき。
その後、やはり中学生くらいの頃から抱いていた海外で暮らしてみたい、という願望をもって、アフリカにたどり着いたこと。
さらに、「高校教師」という映画を観て、湘南への憧れを感じて、大学進学の際、湘南エリアで暮らしたこと。
&amp;nbsp;
断片的な情報だけを頼りに抱いた「憧れ」が、新たな場所に私を引っ張り出した。断片的な分、神戸だったはずなのに大阪に行ってしまったり、本当はアメリカに留学したかったのに、アフリカに行ってしまったりと、そのズレは幾分コミカルではあるものの、そのズレが大きければ大きいほど、新しい「衝動」が生まれるきっかけにもなった。
アフリカに行っていなければ、まったく違う人生になっていただろうから。
&amp;nbsp;
たしか2015年だったと思う。自分の居場所を定めたくて、ある人に相談したことがあった。
「このまま大学時代から親しみのある神奈川に残るべきか、それとも浜松に帰るべきか」
結局、そのときもそうだったのだが、答えを求めようとすると、答えは出ない。
けれども、その翌年に、浜松市をフェアトレードタウンにする、という活動に参加したことで、結果的に、生まれ育った浜松に戻ってくることになった。友人家族の好意もあって、浜松市内で作業場を借り、改装して、浜松が私の居場所になって一年が過ぎた。

そして今、１２月に１２度目の渡墨を予定している。毎度思うことではあるが、１０年前はまったく無縁だったメキシコに、まさかこんなにも通うことになるとは。

&amp;nbsp;
いつも何かに挑戦をするとき、私は新しい土地にいた。２０２０年、そしてその先に、私はどこに導かれるだろうか。
宇宙でさえも、「人が行ける場所」になった今、言葉が違うとか、文化、習慣、宗教が違うとかで、本来、繋がっているかもしれない道を自ら遮断することはやめよう。その先に、自分がつくりたい未来があるから、今は目の前にひろがる道を、信じて歩いて行こうと思う。



</description>
        <content:encoded><![CDATA[<img src='/hs_data/content1/up_img/24232051_551743375166956_4275035681587389175_n.jpg' />]]></content:encoded>
    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=19">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2010-10-25T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業後９年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=19</link>
        <description>


写真：豆乃木創業10年目の記念に作ったコーヒーキャニスター
大学卒業して、起業したばかりの頃。
恐らく私の伝え方や表現が悪かったのだと思うけれど、こんなことを言われたことがあった。
&amp;nbsp;
「慶應（大学）出て、すぐに起業でしょ？つまりあなたが裕福だからフェアトレードとかできるんでしょ。どうせ親から出資してもらって、会社やってるんだよね。」
&amp;nbsp;
あれは何かの講演後の、歓談の時間だったと思う。名刺交換をしながら、そう投げかけられた。決して強い口調じゃなかったけれど、私は悔しくって、思い当たるすべての事実で、ディフェンスしたような気がする。
&amp;nbsp;
例えば、
・大学に入ったのは28歳で、それまでずっと「高卒」として生きてきたこと
・同じ仕事をしていても、大卒の人より給料が安いこともあったこと
・大学の話とか、ゼミとかサークルとか、そういう話は一切わからなくて、劣等感があったこと
・実家は決して裕福ではないこと
・両親ともに「学」はない（が「愛情」をかけて育ててもらったこと）
・奨学金を毎月12万円マックスで借り、働きながら、授業料に充てて、大学に通ったこと
・多分６０過ぎても、奨学金の返済は続くこと・・・
&amp;nbsp;
起業資金は、創業補助金でなんとかした。
「国のお金をもらって事業するな」
と言う人もいるけれど、「借金」しかない自分が手にできる、唯一の起業資金だと思ってしがみついた。
&amp;nbsp;
豆乃木も10年目を迎えて、去年までは、足もとしか見えないくらいに暗中模索していたけれど、この一年で、ようやく、一歩先に目を向けられるようになった。きっかけは、新型コロナウイルスの影響で、移動が制限されたこと。事業の柱の一つであったコーヒーセミナーができなくなり、すっかり産地からも遠のいた。だけど、行く先を失って、腰を据えて「今あること」に向き合ったことで、風向きが変わった。
&amp;nbsp;
今ならわかる。
「つまりあなたが裕福だからフェアトレードとかできるんでしょ。」
って言う人は、人生ずっとご意見番してて、多分自分で何も行動を起こさない人。（だから、私も、あんなに必死になって「高卒だとか、奨学金の借金だとか」を説明する必要もない。）たとえ親から出資してもらって起業したっていいじゃない！目的は「親から借金しないで成功する」ことではないからだ。
私にとってのフェアトレードは、自分自身に嘘をつかないことでもある。むしろそれでしかない。自分が裕福だとか、裕福じゃないとか、何かを持ってるとか、持っていないとかは関係ない。生産者から買い叩いたコーヒーで、利益を生んだとしても、ちっとも嬉しくない。かと言って慈善事業ではないから、フェアトレードと言う正義をかざすのではなく、創意工夫が必要だ。新しく「フェアトレード」の領域を超え、「マイクロロットのダイレクトトレード」を始めたのは、自分自身も「コーヒーをもっと楽しもう」と思ったから。【フェアトレード】では、双方ともに成長をめざし支えあい、長期的な視点に立ち、継続的な取引を前提とする。一定期間、一定の量（またはそれ以上）を輸入することを決め、生産者の生活の安定につながり、生産意欲が沸くような取り組みを意識している。【マイクロロットのダイレクトトレード】では、＜コーヒーを最大限に楽しむ＞をテーマに、さまざまな産地とのつながりを意識している。フェアトレードで重要視している「輸入量」については、そこまで意識することなく、生産者や生産地、そして品質にフォーカスした取引を行うことで、顧客や豆乃木自身がコーヒーを最大限に楽しめる環境を作る。次の10年に向けて、自分自身も、そして多くの人に、喜んでもらえる事業体をつくっていく。今ならそうはっきり言える。


&amp;nbsp;</description>
        <content:encoded><![CDATA[<img src='/hs_data/content1/up_img/fullsizeoutput_8832.jpeg' />]]></content:encoded>
    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=20">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2010-09-25T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業後９年　番外編</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=20</link>
        <description>
写真：両親から、誕生日にサプライズのプレゼント私には、人生で一番幸せな日はいつか、と聞かれたら、はっきりとこの日です、と言えるような日はない。もしかしたら、両親からサプライズでもらったマヤビニックの麻袋の入った額をプレゼントをされた今日かもしれないし、美味しいピザをご馳走になった昨日だったかもしれない。
&amp;nbsp;
でも、人生で一番最悪な日がどれか、と言われたら、私は、20年前のある一日を思い出す。悔しくて、かなしくて泣いたあの日のことを。
&amp;nbsp;
2000年8月から、私はジンバブエ第二の都市ブラワヨというところでの生活し、青年海外協力隊として、子どもたちにソフトボールを教えていた。
赴任当時、SNSはもちろん、eメールもそれほど普及していなかったこともあり、有り余る時間で、日本の家族や友人、そして世界中に派遣されている協力隊の仲間宛てに手紙を書いていたのだが、伝えたいことが似通っていて、いっそ学級通信のようなものを作ってしまえ、と始めたのが「Dear Mio（澪へ）」というお便りだった。（今思えば、それが毎月発行している「豆乃木通信」の原点かもしれない。）
&amp;nbsp;
ところで、澪は、同級生の中で、誰よりも早く母親になった友人の子どもの名まえ。
当時、１歳になったばかりの澪に、私が見たアフリカを伝える、というコンセプトだったはずなのに、早々に路線変更し、例えば、旅の描写でも、こんな調子に。
＊＊＊
南アフリカとの国境の町に行ってきた。たった今帰ってきた。ただいま。
もちろんひとりで。
ひとりで乗合タクシー(コンビ)に乗って、荒涼とした土地をぼんやり見ながら車に揺られているっていうのは、それはそれでとてもすてきだと思う。ウォークマンを聴きながら、ただ時間だけがすぎていく。往復9時間､車の中。缶詰のツナみたいに、ぎゅうぎゅうに押し込められた車の中。定員15名のところを22名詰め込んだ車の中。
&amp;nbsp;
　国境の町には、1時間ほど居ただろうか。
&amp;nbsp;
｢ジンバの免税店が世界で一番安いのではないか｣
とアメリカにしか行ったことがない先輩隊員が言っていたのを思い出し、免税店に入り香水を買った。
｢赴任３ヶ月外出禁止令｣を頑なに守っている同期隊員に、
｢ジンバの免税店ってほんと安かったよ、あっぱれあっぱれ｣
と同じくアメリカにしか行ったことがなかった私は語った。
　帰り道、そろそろ薄暗くなりかけた頃､私ははじめて、「野生のきりん」を見た。
　背丈の低い､頼りない木々の中で「目なんか合わせたくないけんね」と椎名誠風ケンネ的きりんは、窓から体を乗り出して、そいつにラブコールをおくる私に、一切興味がなさそうだった。(実際には、松坂の速球ほどのスピードで走るコンビからは、きりんの表情なんてまったくわからなかった。)
&amp;nbsp;
　陽が落ちて､外は濃い黒と薄い黒に包まれた。窮屈な殺人的コンビにもとっくに慣れ、そろそろ眠ろうかと思っていると､全開にしている窓から水滴が飛び込んできて、慌てて窓を閉める。まもなくすると、烈火のごとく、空が怒りだしたのだ。世間ではそれを雷と言うはず。
&amp;nbsp;
　思えばジンバブエに来てはじめての雨だった。
　この雷が、巨大な線香花火とかだったらおもしろいのになあ。そんなことを考えていたのははじめだけで､フロントガラスを空振りし続けるワイパーで、視界のはっきりしない前方に、恐怖心しかなく、眠気も忘れて、サイドミラーに映るドライバーの顔を凝視した。
&amp;nbsp;
｢俺っちこーゆーのぜぇんぜんヘーキ（平気）だもんでさあ｣
&amp;nbsp;
とその表情は語っていて、それが私をますます不安にさせた。
&amp;nbsp;
雨脚が弱まってくると、今度は、隣の、小錦にスカートをはかせたような汗かきのお姉さんが気になって仕方がなかった。スイカみたいな爆弾おっぱいが私のわきの下に食い込んでいる。さっきからずっと。離れようにも､離れようがない。布団圧縮パックでこのお姉さんを圧縮できたら、どんなに平和だろうか。雨で窓も開けられず。本気で酸欠の心配をした。
　スイカ爆弾おっぱいがわきの下を定位置としたままコンビは雷雨（カミナリアメ）の中を走りに走り、ブラワヨ愛しき俺の街になんとかたどり着いた。ホステルの明かりが懐かしく感じた。
＊＊＊
と言う具合に。本題に戻ると、その「Dear Mio（澪へ）」の中でも、その私の最悪の一日のことが綴られている。＊＊＊
財布を盗まれ、無一文になった日、親に心配をかけまいと
｢カードをなくしたから、使用できないようにして欲しい｣
と金のことには触れず、真夜中の日本に電話をかけた。
眠たそうな声で、ジンバブエに来てから、はじめてかかってきた娘からの電話に戸惑いながら、こんなときになんだけど、と言って、母は、おばさんの死を私に告げた。
&amp;nbsp;
　数時間前、狂ったジンバブエ人４、５人に囲まれて、有り金全部をすられた悔しさで涙に暮れた私だったが、その瞬間、それよりもはるかに上まわる涙を流しながら、はじめて日本を遠くに感じた。
　
　おばさんが死んだ。
　この事実は、数日を経て、今も私の日常に、暗い影を落とす。瞬間瞬間に、元気だった頃と、病気でものを語らなくなってからのおばさんの残影が頭に浮かぶのだ。そのたびに、胸がしめ付けられる思いがして涙が出る。
　ひとつの死に、ひとつの命に、鈍感にならざるを得ないこの距離を恨みさえする。私がおばさんの死を知ったのは、亡くなってから一週間もたってからのことだった。
　おばさんが､以前のように、大好きなコーヒーを飲みながら､笑って話ができるような、そんな「次の世界」があったらいいな。誰もが、「そこ」に向かって､もがき､苦しむのだから。
　
　私はその日、全財産を盗まれた。金を盗まれるためにその日、その時間が設けられていたと思うと､生きることがたちまち馬鹿らしくなる。
　それでも、明日はまた違う一日。そう思ってベッドに入ろう。
　おやすみなさい､澪。
＊＊＊
あれから20年。
その文章の冒頭、
「幼い、生まれたばかりのあなたにどう語っていいのかわからない。
　私の２２年間でいちばんかなしい一日のおはなしです。」
と記されている。
そこからさらに２０年が経つけれど、今でもあの日が私の人生の中で、一番哀しい記憶。
&amp;nbsp;
というのは、それ以上に悲しい出来事がなかった、と言うわけでもなく、いろいろな経験を経て、辛いことや哀しいことの乗り越え方や、ポジティブな捉え方を、20年かけて習得してきたのだと思う。（だけど、人の死には、どうやったって、慣れない。）
&amp;nbsp;
澪は、今年、成人式を迎えた。
健康で、やりたいことができて、同時にかなっていない夢もたくさんあって、挑戦し続ける日々が、とても幸せだと感じる。
&amp;nbsp;</description>
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    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=22">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2010-08-18T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業後10年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=22</link>
        <description>豆乃木は２０２１年１０月２０日で、１０歳になる。コロナ禍で、コーヒーを求める方が増えたためか、当社も毎日コーヒーの出荷に追われている。今日のように、月曜日は、週末からの注文がたまっており、スタッフはまるで、何かの競技者になったかのように、狭い作業場の中で、両手をフル回転させて出荷に当たっている。こんな日が来るなんて、数年前は想像できなかった。１０年前、わたしはひとりで豆乃木を立ち上げた。しばらくずっとひとりだった。その後、助っ人の力を借り、５～６年、踏ん張った。はっきり言ってうまくいかないことばかりだった。特にはじめの２～３年は悔しい思いしかしてこなかった。とにかく惨めだった。誇れるものはなにひとつなかった。お金がまわらなくなった。人にお金を借りたこともあった。月末が来るのが怖かった。でも不思議なことに、一回もあきらめたことはなかった。やめようと思ったことはなかった。起業して１０年。今、ようやく、自分がやりたいことが、少しずつ形になってきた。ひとつ転機を上げるのであれば、浜松に拠点を移したこと。同級生とその家族の力を借りて、浜松で再スタートを切ったあの日。（詳しくは「豆乃木がなる日　Story of mamenoki そして浜松へ」）浜松に移転してからも、最初の頃は、まったくと言っていいほど、忙しくなかった。１５時をすぎると、同級生のふたりの子どもたちと、近所にある学校の校庭や、近くの浜辺で遊ぶ時間があった。当時、浜松にいながらにして、月の３分の１は県外を飛び回っていた。シゴトのようで、シゴトじゃないようなことをしながら。シゴトにつながればよいと思いながら。「何をしているかよくわからないが留守がちな私」の不在をカバーしてもらうために、同級生の「ママ友」がスタッフとして仲間入りしてくれた。それが２年半前のこと。つい最近まで、３人だけの職場だった。同世代の女３人。他愛のないことで、よく笑った。根がまじめで、心配性なアヤコと、平和主義で調和を愛するユウと、気分屋でガサツな私の３人。一度だけ、わたしが何かに腹を立て、怒って、すごく気まずい時間が生まれたことがあった。気まずさが払しょくできぬまま、週をまたぎ、「話し合おう」ってことになって、テーブルについた途端に、ふたりが泣きながらそれぞれの思いを話をしてくれた。私は、虫刺されでできた瘡蓋（かさぶた）をいじりながら、反省して、同時にふたりの誠実さに感謝した。あの日・・・。あの出来事は、今では笑い話だけど、ふたりがいてくれて本当に良かった。豆乃木にとって、間違いなくなくてはならない存在だ。１年とちょっと前に、大学生のインターンが来ることになった。ほぼ同年代で調和のとれた３人の職場の中に、突如、約２０歳、年の離れた女子大生が入ることになった。真面目そうな「女子大生」はすぐに仕事を覚えて、要領よく、テキパキと立ち回ってくれた。何よりも私たち「おばさん」にしっかりと「対応できる」点で、とても優秀だった。意外と人見知りなところのあるアヤコのことを「親分」と慕い、「親分」に従順な「シャテイ（舎弟）」となった。それが「おさき」だ。そう、アヤコと言えば。以前にひょんなことから、「マヤ暦鑑定」を受けた話をしたことがあったのだが（「豆乃木がなる日　Story of mamenoki 起業後７年」）そのあと、さらに深く鑑定をしてもらったところ、アヤコはわたしにとっての「ガイド（導く人）」だと言うのだ。(反対に、私もアヤコにとっての「ガイド」だということが判明）。たしかに、豆乃木を構成するメンバーのほとんどは、アヤコが連れてきてくれた。最初にユウ。そしてユウのお姉さんも、表には出ていないが、裏方として大きな役割を担ってくれている。さらに、今年の１０月から、もうひとり、アヤコを介して豆乃木に新メンバーがやってきてくれた。来週さらにもうひとり。そして来月にも。全部、きっかけはアヤコだったりする。アヤコの「ママ友」・・・アヤコの知人の友人・・・アヤコの子どもの習字の先生の紹介・・・恐ろしいガイドだよ。アヤコとユウと３人で、晴美（近所の定食屋さん）でラーメンを出前して、わちゃわちゃ動画撮っていた時代が懐かしくもあるが、今、まさに、豆乃木がもう一歩前に進むべきときがきたのだと思う。アヤコ、ユウ、おさき。そして新しい仲間とともに、これからの１年はどんな１年になるだろうかと楽しみでならない。何よりも、いつもご利用いただいているお客様に、ストレスなくお買い求めいただける環境を作るための、人員配置になるので、今後も、私たちとともに、コーヒーを楽しんでいただけたら何より嬉しい。</description>
        <content:encoded><![CDATA[<img src='/hs_data/content1/up_img/osakicoffee.jpg' />]]></content:encoded>
    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=33">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2010-08-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木がなる日　Story of mamenoki  起業後11年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=33</link>
        <description>２０２２年７月のある日。かつてたった6か月間ではあったが通っていた職場に呼んでいただき、コーヒーのお話しをさせていただいた。その職場は、大学院大学という場所で、少し特殊なのだが、「光」技術をもちいて産業を興し、社会しいては国づくりに寄与することを建学の精神としており、その根幹には「起業家の育成」が掲げられている（と、理解している）。私は光技術とは全く無縁なのだが、今から１２～３年前に一派遣社員として、その大学が一般市民向けに開講していた「起業講座」のスタッフとしてかかわることになった。当時の私は、神奈川県の大学に所属する大学生でもあった。
ある夏の日、忘れもしない、一本の電話が鳴った。かつて登録していた派遣会社からだった。
「杉山さんにぴったりの仕事があるのですが、今なにかお仕事されていますか」
と。大学3年生の夏。前期で、卒業に必要な単位をほぼ取り終えたばかりの私は、友人との山梨県に日帰り旅行の最中だった。電話を持つ手とは別の手には、熟れた桃をつかんでいたかもしれない。私は「実は神奈川県内の大学に通っているので、ちょっと難しいですね。」と伝えたうえで、「ちなみに、それってどんな仕事なのですか」と確認した。「わたしにぴったりの仕事」が気にならないはずがない。「それが、起業講座のスタッフなんですけど・・・」そのとき、指先に入った力で、もしかしたら桃のしずくが地面に滴ったかもしれない。
&amp;nbsp;
その直後に、私は神奈川県内のアパートを解約し、藤沢を一旦離れた。　
当時のスケジュールとしては、週末に「起業講座」が開講されるので、月曜日の朝、新幹線に乗り、神奈川県で授業を受け、ホテルに一泊。翌、火曜日も授業。その後、浜松に帰り、水曜日から金曜日は大学院大学での勤務。そして週末の「起業講座」。
正直、水曜日から金曜日の大学院大学での事務局内での私は、本当に「役立たず」だった。
毎朝、職員のお茶くみをした。誰が、どのカップかを覚えることさえも難しかった。
そして来客があるとやはりお茶をいれた。
湯呑に、なみなみとお茶を淹れる私を、先輩の事務員さんがやさしく正してくれた。そうか、湯呑に対して、お茶の量というのは、こんなにも「ささやか」なものだったのかと学んだ。思えば、我が家はマグカップでお茶を飲むような家だった。
あとは何をしただろうか。
どこで、どうやってお昼を食べただろうか。
構内で過ごした出来事は、まるで思い出せなかった。
一方、週末の起業講座のときだけは、たぶんものすごく生き生きしていたはずだ。
コピー用紙のサイズはいつまでも覚えられなかったが、受講生の名前はすぐに覚えることができた。受講生の皆さんと土曜日の夜は、毎度、浜松の夜の街に繰り出し、「起業」について語り合った。それまで、漠然と抱いていた「起業」へのあこがれは、しっかりとした目標に変わっていった。
&amp;nbsp;
その後、「起業講座」は場所を東京都内へ移して開講。再び神奈川県へと拠点を戻した私は、週末ごとに、都内へ出向き、講座に関わることになった。
そして私は、大学を卒業した年に株式会社豆乃木をつくった。最初の大きな仕事でもあった百貨店での催事のきっかけは、起業講座の講師に呼んでいただいた「芋煮会」がきっかけだった。
&amp;nbsp;
１２，３年の時を経て、かつての「職場」からの一本のメール。
「杉山さんのコーヒー生豆を焙煎したものを、お昼休みにみんなで飲みながら、コーヒーの話をしてくれませんか」
という楽しげなお誘いに、コロナをきっかけに重くなっていた足が、綿あめのように軽かった。
もうすぐ１１周年。１１年で、自分がやったことはほんのわずかなことだったが、役立たずのひとりの派遣社員の存在を、こうやって思い出していただけたことは、本当に嬉しく、ありがたい。</description>
        <content:encoded><![CDATA[<img src='/hs_data/content1/up_img/11nen.jpg' />]]></content:encoded>
    </item>
    <item rdf:about="https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=34">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2010-07-01T00:00:00+09:00</dc:date>
        <dc:creator>フェアトレード＆オーガニックコーヒー卸・小売 販売のまだゆめのつづき｜株式会社豆乃木</dc:creator>
        <title>豆乃木でなくなる日　Depurture from mamenoki 起業後12年</title>
        <link>https://www.hagukumuhito.net/about/?mode=detail&amp;article=34</link>
        <description>
&amp;nbsp;

起業12周年を機に名称を変更することになった。他にも事情はあるのだが、とてもよい機会だと思って。7月中旬、ちょうどエアコンのタイマーが切れたであろう1：30に目が覚めて、そこから眠ろうとするのだが、断続的に目が覚め、目が覚めるたびに、生まれつつある「名称」に思いをはせた。とにかく寝苦しい夜だった。
この1か月、寝ても覚めても、「新しい名前を決める」というミッションに、わたしは支配されていた。
サウナの外気浴中であっても、「怪物」という映画の鑑賞中であっても。ドライブをしているときは看板の文字を無意識に追いかけ、スタッフや知り合いに「子どもの名前の由来」を聞いてまわった。
実務どころか実生活に支障が出るレベルで、わたしは生みの苦しみの中にいた。

そして生まれてきた名まえが
「まだゆめのつづき」

どう？
青臭いでしょ。
&amp;nbsp;
思いついた名まえを、 自分の中で何度となく 反芻したあと、満を持して、まわりに伝えたとき、ひとりとして良い反応がなかった。 ひとりとして良い反応がなかった。
彼らの反応は、実はわたしの中にあった「まだゆめのつづきって、ダサくない？」という迷いとちょうど、ぴったり同じ温度だった。
（シャチョーの発案にまったく忖度しないよい企業文化に育ってよかった）
&amp;nbsp;
わかるよ、みんなの気持ち。
&amp;nbsp;
でも、生まれてきてしまったこの名まえを、どうしても反故にできない、したくないという「静かな熱狂」がこの名まえにはあるような気がした。
１週間経った今でも、か細いろうそくの上にある消えない炎のように。
&amp;nbsp;
だとしたら、今度は、大いに「ゆめ」を語る番だ。
名称変更は、間違いなく、株式会社豆乃木の第2章の幕開けだ。
このチャプターでは、わたしたちは引き続き、日本とメキシコ、ペルーの小規模コーヒー生産者をつなぐ役割をになっていく。
さらに新たな展開として、メキシコやペルーのすばらしいコーヒーをアジアのマーケットに展開すること。
同時に、21歳ではじめて訪れ、合計3年7か月を暮らしたアフリカの地にもどり、アフリカの生産者との交流をつうじて、皆さんに新しい景色をお届けすること。
&amp;nbsp;
先日、マラウイからきてくれたお客さんとつながることができたこともよいきっかけになりそうだ。結局、この12年で豆乃木になった実こそが、
「ゆめ」だった。
&amp;nbsp;
&amp;nbsp;
「ま だ ゆ め の つ づ き 」
「ま&amp;nbsp; &amp;nbsp;だゆ&amp;nbsp; &amp;nbsp;めの&amp;nbsp; &amp;nbsp;つづ&amp;nbsp; き」

さあ、新たな旅路のはじまり。
「まめのき」の足跡を残しながら。
今後は「まだゆめのつづき」という名まえのもと、わたしたちとともに「ゆめ」のつづきを共に歩んでいただけたら嬉しいです。
&amp;nbsp;
その「ゆめ」が叶えば、ダサくないよね？
&amp;nbsp;</description>
        <content:encoded><![CDATA[<img src='/hs_data/content1/up_img/20230801195054.jpg' />]]></content:encoded>
    </item>
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