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ブラジルへの移民とコーヒーの大衆化(追記有り)

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コーヒー豆を卸売り価格にて販売させていただいております。

セイコ社長の【ガチ日記】

2016/08/16

ブラジルへの移民とコーヒーの大衆化(追記有り)

8月21日神奈川県立地球市民かながわぷらざ「あーすぷらざ」のレクチャーの内容に少し触れています


ブラジル移民とコーヒー栽培
画像:写真は1930年代の採取風景(国立国会図書館「ブラジル移民の100年」より)

8月21日(日)に神奈川県横浜市のあーすぷらざにて「美味しい珈琲の淹れ方講座」をやらせていただくことになりました(おかげさまで満員御礼のようで、受付は締め切っております。)

・・・と、ここまでみる限り、豆乃木定番のコーヒーセミナーと変わらないのでは、と思うのですが、実はブラジルでのリオオリンピックに合わせて、同所より「ブラジルのコーヒーについてレクチャーを」との要望をいただいているのです。 ブラジルのコーヒーは飲む専門ですので、歴史的背景や実際のコーヒー栽培の状況などを改めて調べてみると、ブラジルに限らず、「移民たち」の人生に吸い込まれていきました。

講義では、すごく大ざっぱではありますが、このようなお話をしようと思います。

移民の歴史

日本人の海外移住は、1866年に海外渡航禁止令(鎖国令)が解かれてから、すでに100年以上の歴史があります。ハワイ王国における砂糖きびプランテーションへの就労に始まって、アメリカ、カナダといった北米への移住、そしてその後1899年にはペルー、1908年にはブラジルへと日本人が渡ります。そして、1924年にアメリカで日本人の入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移っていきます。その結果、第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人が移住しています。
海外移住資料館ホームページより)

ブラジルへの移民

1907年(明治40)水野龍氏が代表をつとめる皇国殖民会社によって、ブラジルへ初めての移民が送られることになりました。締結した契約内容には「皇国殖民会社は、向こう3年間にコーヒー農場の農業労働者として家族移民3千人を募集し、ブラジルのサントス港まで輸送すること。」とあります。
その後、水野氏の尽力と移民への感謝と敬意の証として、サンパウロ政府より大量のコーヒー(当時の消費量の7倍の量)が送られることとなりました。これだけのコーヒー豆を保管するだけでも、倉庫代やらなにやらとお金がかかります。コーヒーを売りさばくために、水野龍氏は、現在も銀座で営業を続けているカフェパウリスタを神戸・三の宮に開店させます。
つまり、こちらは「こんなにたくさんのコーヒー豆をどうするべ?」という悪戦苦闘の産物でもあったようですが、これによってコーヒーの一般消費化に成功します。

ブラジル移民の苦悩

そもそもブラジル政府は奴隷制度の廃止が廃止となり、労働力を失ったことから、移民の受け入れが必要となりました。最初はヨーロッパからの移民を受け容れましたが、第一次大戦がはじまると、ブラジルへの移民を停止しました。そこで日本から移民を受け入れることになったのです。
ブラジルへ渡った移民の8割がコーヒー栽培に従事しましたが、労働は過酷で、大農園主の中には、彼らを奴隷のように扱う者もいたようです。さらにマラリアを患い、命を落とす人も少なくありませんでした。
ブラジル移民から100年を経て、ブラジルでは6月18日を「」日系人移民の日」とし、彼らのブラジルへの貢献を讃えています。現在では、移民のブラジルで暮らす日系人は150万人といわれています。


追記:コーヒーの歴史に刻まれる松屋珈琲店

ブラジルのコーヒーの歴史を調べていくとすぐに、当社も焙煎部門で非常にお世話になっている虎ノ門の松屋珈琲店さんの創業者である畔柳松太郎さんのことを思い出しました。
松太郎さんは、1913年に皇国殖民合資会社に入社し、コーヒーを担当し始めるのです。入社から1年後、大量のコーヒー豆の売りさばきに従事したのが松太郎さんであることが松屋珈琲店さんが発行した『コーヒー90年のあゆみ』に記載されています。(松屋珈琲店の歴史により詳しく書かれています。)

いつもコーヒーを置かせていただいているJICA横浜には「海外移住資料館」が併設されています。私も一度、ゆっくり訪れ、移民たちの息遣いをより近くで聴いて、触れてきたいと思います。