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豆乃木がなる日 Story of mamenoki 7年目に射した光

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豆乃木がなる日 Story of mamenoki 7年目に射した光

日墨交流会会報37号への寄稿文です

日墨交流会から、今回の講演のお話をいただいたとき、私は今年2度目となる渡墨に向けてのスケジュール調整に難航していたこともあり、講演の日程ばかりにフォーカスするあまり、その責務をよく理解できていませんでした。

当日、メキシコ大使館を訪ね、90名以上もの「メキシコのプロ」のご参加をいただき、日の丸とメキシコ国旗のある檀上を眺め、土壇場になって私には荷が重いと焦りましたが、「メキシコのプロ」の皆さんの胸を借りて、2014年のサビ病の危機から、現在に至るまでの、マヤビニック生産者協同組合の皆さんとの関わり合いの変化、そしてフェアトレードがなぜ「できない」のかの根本的な原因、それでもフェアトレードをする理由などなどをお話させていただきました。

講演の後には、交流会があり、私が2011年の株式会社豆乃木(以下、豆乃木)創業以来、輸入に関わっている「マヤビニックコーヒー」も飲んでいただくことができました。

また一歩、自分のアイデンティティの中に、まばゆいメキシコの色味が加わったような気がして嬉しかったのと、豆乃木がメキシコのコーヒーを扱う会社であるという客観的事実を見直した瞬間でもありました。

檀上からご挨拶をくださったメキシコ大使館、ホセ・アントニオさんのスペイン語での挨拶はほとんど理解でないどころか、日本語通訳のないことに慌てながらも、引き続き、ラジオスペイン語を頼りに、「メキシココーヒー」を背負って、日本中を駆け回りたいです。 

青年海外協力隊としてはじめてアフリカ・ジンバブエに派遣された17年前から私の中に滞留する「アフリカへの思い」は、一旦、心の奥底へとしまい、当日の講演内容を振り返ってみたいと思います。

 

きっかけは「アフリカへの恩返し」

青年海外協力隊としてジンバブエに赴任したときは21歳だった。

ソフトボールの部活動で、アメリカに遠征した高校1年の時に、破顔の笑みでボールを追いかけている同世代のアメリカ人の女の子たちと、日々の練習が苦痛でしかなかった自分自身とを比べて、ひどく落ち込んだことを覚えている。海外への憧れが募ったのはこの頃だったか。

はっきり言って、国際協力にはまったく興味がなかった。というよりも、援助が必要な背景や、そこに付随する仕事があることさえ知らなかった。私は無知で、自分さえよければいいと思っていた。

高校を卒業して、入学した専門学校では、あっけなく挫折して、たった数か月で生まれ育った町に戻った。再び、違う景色が見たくて、なんとか這い上がろうとしていたときに、「青年海外協力隊」の募集広告を見掛けた。海外への憧れを思い出して、私は飛びついていた。

はじめての「途上国」は、残酷で、奇妙だった。盲目の母親の傍らで、歩き始めたばかりで足元がおぼつかない子どもが、肌の色の違いだけを察知してか、私たちに手を差し伸べてくる。はじめて覚えた英語が「Give me money」かもしれない少女の汚れた手。最初は戸惑い、絶望し、そのうち、いつもの景色になっていた。

ソフトボールをしたいと集まった女の子たちは、悪びれることなく、決まって1~2時間くらい遅刻して練習に現れた。最初はストレスでしかなかった待ち時間も、そのうち「そういうもの」になっていった。選手たちはすぐになついてくれた。みんなが家に遊びに来いと私を誘う。どの家も、同じくらいに質素で、子どもが多く、薄暗かった。

よく招かれたのは、4畳半が2間ほどの小さな家。雨音が強くなると、互いの会話がほとんど聞こえなくなるトタン屋根の下に、親戚も含めて10人ほどの家族が暮らしていた。私は、刺繍の施してあるソファカバーのかかった、一番立派な一人掛けの腰掛に通されて、よく食事をご馳走になった。稀に、私のプレートにだけ、一切れの肉が置かれていた。申し訳ないやら、嬉しいやら。選手の母親が、私と同じくらいおぼつかない英語で、一生懸命、日本のことや、私の家族のことを尋ねた。私がジンバブエを離れるときに、日本人の大きな娘に、アマイ(ジンバブエの言葉でお母さん)は手縫いのエプロンをプレゼントしてくれた。

「持っていない」とされる彼らが、「持っている」私たちに、いつもいっぱい与えてくれた。いつか、彼らに恩返しをしたい。その原動力が、私を次なる国、ケニアに向かわせた。

 しかしながら、2度の隊員活動を経ても、私の恩返しは果たされぬまま。3度目の正直で、マラウイへ行ったときに、今の進路を決定づける活動に携わった。それが一村一品運動だった。

 

一村一品運動との出合いと進学

一村一品運動は、「地域にすでにあるものに磨きをかけて、地域の誇りとなるような産品をつくり、その一連のプロセスによって人づくりをする」という1980年に大分県で生まれた地域おこしの運動である。私はそのコンセプトに共感し、マラウイの担当エリアを、文字通りに縦横無尽に走り回った。そこで出会う生産者グループのリーダーの中には、自分たちの地域資源で、モノを生み出し、四苦八苦しながらも、販路を広げようとする人たちがいた。私は、彼らのようなアントレプレナーがつくっている「産品」の市場調査や販路開拓をサポートする立場でありながら、アントレプレナーシップとは程遠い、守られた生活の中にいる“気まずさ”を拭えなかった。彼らのような「遠くの生産者」とマーケットをつなげる―それが、私が描く「恩返し」の具体的なイメージとなった。

マラウイからの帰国後、私は大学へと進学した。そのとき、28歳になっていて、10も年下の「同級生」と机を並べることになった。

講義は私にとって「答え合わせ」だ。派遣国で直面した現実や、現場での体験は、学者たちの言葉を通して、理論として私の頭にひとつずつ整理され、収納された。そして在学中に、再びつながった、私と「海外」との接点。それが、後の「豆乃木」創業の原点となる。

行き着いたのは、馴染の深いアフリカ大陸ではなく、中米・メキシコ。私が所属した研究室では、2003年より、メキシコ・チアパス州のコーヒー生産者の自立支援活動を行っていたのだ。 

メキシコのコーヒー生産とマヤビニック組合

コーヒー豆の主要生産国であるメキシコでは、伝統的に先住民が小規模なコーヒー生産を行っている。かつては、メキシコ・コーヒー公社が政府保証価格でコーヒー豆を買い上げたり、生産者に対する技術指導を行っている。しかし、国営企業の民営化と財政健全化政策の一環として、1989年には政府保証価格の買い上げが廃止されたため、生産者の収入が不安定となった。そこで、生産者が集まって独自に商品を開発し、販売する協同組合が結成されるようになった。チアパス州チェナロー区にあるマヤビニック生産者協同組合(以下、マヤビニック)も、こうした協同組合の一つだ。

 1999年に組織されたマヤビニックは、独自に販売ルートをつくり、焙煎豆の国内販売と、フェアトレードによる生豆の海外輸出を行ってきた。特に有機栽培のコーヒー豆は、海外に輸出する際、高値で買い取られるため、有機栽培によるコーヒー豆の生産に力を入れた。 

それまで外部により機材供与や資金協力を受けたこともあったが、それでも生産設備が十分ではないことや、販売経験の不足等、様々な問題を抱えていた。

 そのような折に、2001年、協同組合の理事長であるアグスティン・バスケス氏と、当時慶應義塾大学の山本純一先生(現名誉教授)は偶然に出会った。バスケス氏は、山本先生に日本に、マヤビニックのコーヒー豆を輸出するにはどうしたらいいか、という相談を持ちかけた。この相談がきっかけとなり、2003年に「慶應義塾大学山本純一研究室 Fair Trade Project(以下、FTP)」を立ち上げ、フェアトレードの研究や現地での調査が始まった。2006年からは、JICAが実施している草の根技術協力事業を通じて、技術協力を行ってきた。

 FTPは、山本先生を中心に、民間企業に勤めるコーヒー専門家や学生も参加し、マヤビニックが生産するコーヒー豆の質の向上と品質管理の改善、コーヒーに関する理解や、マーケティング能力の向上等を目指した。このプロジェクトの最終的な目的は、マヤビニックが自力で組合を運営し、組合員が経済的に独立することを目指したのだった。

 

「生産者にとってのカフェ」

コーヒーと一言でいっても、私たちがカップでコーヒーを飲むまでの間には、長い道のりがある。

マヤビニックでは、コーヒーチェリーと呼ばれる赤い実がなる12月頃から収穫がはじまる。完熟した赤い実をひとつずつ手摘みしたあと、果肉を除去し、発酵槽で24時間、浸水した後に、天日乾燥(ここまでが一次加工)。その後、十分に乾燥されたパーチメント(コーヒー豆に殻がついた状態)が、生産者によっての加工場に持ち込まれ、脱穀、比重・サイズ・色の選別を経て、69kg入りの麻袋におさめられ(ここまでが二次加工)、日本やアメリカといった国に輸出される。それぞれの国で焙煎され、はじめて、馴染のあるコーヒー豆の形となる。

この過程はバリューチェーン(価値連鎖)と呼ばれ、生産者が主に携わる一次加工の段階では、利益は少なく、生産者の手を離れたあとの、焙煎やカフェでの店頭販売といった段階で、コーヒーの付加価値は一気に高くなる。

FTPでは、生産者自らがそうしたコーヒーのバリューチェーンに参画していくことが重要であると考え、2010年から始まった第2期プロジェクトでは「コーヒーの加工・焙煎、コーヒーショップの開店・経営」となった。何よりも、「自分たちのコーヒーの価値を知ってほしい」という思いから、山本先生を中心に、生産者が自らの作っているものに誇りを持てるよう指導を続けた。そして、2011年12月、ついに、マヤビニック・カフェがオープンする。


「コーヒーを販売しよう」

同時期、私はFTPの学生理事であったものの、メキシコの生産現場とは程遠いところにいた。私の起業への思いは、日に日に高まっていたけれど、何を「飯の種」にするのかの決定打がないまま、卒業が間近に迫っていたある日、国内で、生産から販売までを手掛け、海外にも販路を持つある農家さんに出会った。 

自己紹介の流れで、関わっていたFTPのプロジェクトの話をした。私の話を聞き終えると、その農家さんは、こう言った。

「作る人にとって、一番嬉しいことって何かわかる?作ったものが、手間に見合った価格で売れるっていう、単純なことなんだよ。」

この言葉を聞いたとき、私は、マラウイで抱いた“気まずさ”を思い出した。援助ではなく、彼ら生産者と共に汗を流すパートナーになりたい。

「そうだ、私の手の中には、マヤ先住民の人たちが大切に育てたコーヒー豆がある」

それは一村一品運動で言うところの、磨けば光る「原石」のように思えた。マヤビニックコーヒーを日本で販売しよう。そう自分の気持ちが固まっていくのを感じた。そして、2011年10月、私は株式会社豆乃木をたったひとりで立ち上げたのだった。

コーヒーサビ病

豆乃木を創業、同時期にオープンしたカフェテリアを訪ね、初めて、チアパスを訪れたときは、言葉の問題もあり、生産者組合の皆さんと目も合わせられぬほどだった。

その後、年に1~2度のペースでチアパスを訪れるものの、その距離感は埋まらぬまま。

それでも、私はマヤビニックを「生産者自らが誇りを持てるブランドに」というコンセプトを掲げ、オンラインショップの開設、業務用コーヒー生豆の販売、そして年間100本以上のイベント販売会やコーヒーセミナーを持ちながら、奔走していた。

少しずつ販路ができてきた2014年の頃、組合のサポーターであるルイスから一本のメールが入った。

「今年は思った以上にサビ病が深刻でオーガニックコーヒー豆をあなたの希望の数だけ用意できるかわかりません」

という内容だった。

サビ病とは、「コーヒーさび病菌」という名前のカビによる植物伝染病で、発症すると、葉の裏側に赤さびのような斑点がいくつも現れて次第に広がり、やがて葉は枯れ落ち、病気は葉から葉へと広がり、最終的には一本の木全体の葉が落ちてしまう。葉を失ったコーヒーの木は、光合成を行うことができず、木そのものが枯れてしまう。

さび病菌は「空気感染」し、農園全体、産地全体に広がって、すべてのコーヒーの木を壊滅させる恐ろしい病気である。

私は状況把握のために、産地へ渡り、実際にこの目で、まったく葉のついていないコーヒーの木を目の当たりにして絶望的な気持ちになった。でも、サビ病以上に深刻な問題を自覚していた。

それは、生産者組合の人たちとの「コミュニケーション」の問題だった。

生産者との「埋まらぬ溝」

 ルイスは、マヤの先住民で組織される組合の中で、唯一の非先住民でありながら、1999年の組合創設以来、彼らのサポーターとして組合運営を担っている。当時から、スペイン語を話せない私にとって、英語が理解できるルイスが、唯一の心の支えだった。そのため、すべてのコミュニケーションは、ルイスを介しておこなわれていた。気づかぬようにしていたが、スペイン語を理由に、他の組合役員とのコミュニケーションを意図的に避けてきた。それは次第に、「先住民の人たち」への理解の欠乏による苦手意識に変わっていたのだった。

私はサビ病で朽ち果てたコーヒーの樹木を眺めながら、

「10年、20年かけて、彼らにとっての信頼できるパートナーになろう」

と誓った。

正直、当時は、メキシコのことを、それほど好きではなかった。それでも毎年、産地に足を運び続け、2015年にはじめて、組合の皆さんから「来てくれてありがとう」と声を掛けられた。

そして、2016年。いつものように産地を訪れると、ルイスはこう言った。

「今回、僕は同行できないけれど、彼らと一緒に、彼らの(生産現場でもある)コミュニティへ行っておいでよ。きっとおもしろい体験になると思うよ。」

 ルイスに「放牧」された私は、腹をくくって、組合員が運転する車に乗せてもらい、彼らのコミュニティへと向かった。

車内、誰かが、私に向かって言った

「風が強いね」

というスペイン語が唯一、私が聴き取ることができる言葉だった。そのあと、彼らが話すツォツィル語をBGMに、私は車窓にひろがる「いつもの産地の景色」を眺めていた。 

 

「来てくれて、ありがとう」

最後まで言語によるコミュニケーションには事欠いたのであったが、それでもルイスのいない2日間で、私と先住民である彼らとの距離は縮まったかのように思った。

「最後に写真を撮ろう」

と私が声を掛けると、皆が応じてくれた。組合長のマリアノさんが、親指を立てて、ポーズを決める。ただそれだけのことが、とても嬉しかった。

翌日、ルイスを含めて、組合の事務所で2日間の滞在について振り返る時間があった。彼らの口から、

「私たちのコミュニティに足を運んでくれてありがとう。おかげで、どういう人が、自分たちのコーヒーを買ってくれているのかが、組合員である農家にもわかってもらえて、本当に良かった。

私たちが日本へ行くのは難しいけれど、日本の皆さんにもお礼を伝えて欲しい。Gracias!」

彼らの言葉に、涙があふれた。

 

フェアトレードとは何か

2017年10月で、豆乃木を創業して丸6年になる。

2017年8月末に、創業以来、念願であった自社名義でのコーヒーの輸入を果たした。デバン(コンテナからコーヒー豆をおろす作業)を見守っていると、やっぱりこみあげてくるものがあった。

マヤビニックコーヒーは、現在、北は北海道から南は沖縄まで、心あるロースターさんに「選ばれるコーヒー」となった。創業当時は、フェアトレードという正義を振りかざして販売していた時期もあったが、長年コーヒー業を営む方々が、口ぐちに教えてくれた。

「他にも良い豆はいっぱいあるけど、なぜかマヤビニックはたくさんのお客さんに突き刺さる、深く愛される不思議な豆だ。フェアトレードというだけではない、それ以上の何かがある。」

産地を訪ねたときに感じた、足が包み込まれるような土の感触。強い太陽の日差しを遮る大きなバナナの葉。その下で熟した赤いコーヒーの実が、厚みのある生産者の手によって、ひとつひとつ摘み取られる瞬間を見れば、たしかにそれは不思議なことではない。  

もしかしたら、私がメキシコの産地で見た景色を、生産者の姿や思いを、まるごと伝えることができたのなら、「フェアトレード」が単に「エシカルな消費者」だけのものではなく、その先にまで広く浸透するだろうか。そのためにも、生産者らと、一年一年を積み重ね、コーヒーを通して見える世界を、おいしいコーヒーにのせて、毎年毎年、届けたい。そんなふうに思っている。

終わりに

2017年9月20日、目覚めると、メキシコを襲う今年2度目の大きな地震があったことを知らせるニュースが飛び込んできた。奇しくも現地地震発生日となった9月19日は、1985年のメキシコ大地震と同日、メキシコ国内では国家市民防災デーの一環で、地震発生の2時間前には、避難訓練が行われていたと聞く。

2017年9月9日に発生したメキシコ南部沖を襲った地震は、弊社のお客様からのメッセージで知った。

「杉山さん、チアパス沖で大きな地震が発生しているようですが、生産者の皆さんは大丈夫でしょうか」

地震発生時、私は8月末に入港したコーヒーのニュークロップ(新豆)を納入したばかりのカフェを訪問していた。カフェの店主に、

「メキシコで大きな地震があったみたいです。」

と伝え、状況確認のために、生産者組合の何人かにテキストメッセージを送った。すでに現地時間では夜も深かったが、すぐに返信をくれたのは、後述するサンクリストバル・デ・ラス・カサスの生産組合直営カフェ「マヤビニック・カフェ」の店長だった。ちょうど、その日の営業を終える頃に地震が発生したようで、

「とても揺れたけど、自分も、家族も、カフェも、大丈夫だ。」

とのことで、ひとまず、安堵する。

その日は、弊社でチアパス産のコーヒー「マヤビニック」を納入させていただいているカフェや自家焙煎店から、チアパス地震による被害を心配するたくさんのメッセージをいただいた。皆、おいしい一杯のコーヒーでチアパスとつながっている人たちだった。

その後、産地は、大きな被害もなく、皆、無事であることがわかったが、太平洋沖の被害は深刻であり、続く地震の恐怖におびえているメキシコの人たちに、何ができるだろうかと途方に暮れる。

しかし、結局私ができることは、来年も、彼らからコーヒーを買い付けること。日本の皆さんに、「彼らのコーヒー」を届けること。今年以上の量を買うことができたら、ヒビの入った建物の修繕費用くらいは、賄うことができるかもしれない。

メキシコが一日も早く、元気を取り戻しますように。